作文指導の効果 1 [作文のチカラ]
作文指導の効果について考えています。
文章が書けた方がよいかどうかについては、
書けた方がよいと考えてよいでしょう。
ピアノだってテニスだって、できないよりはできたほうがいい。
できたほうが生活に楽しみや彩りが生まれますから。
ただ、文章表現においては、「彩り」というだけではない側面もあります。
言葉が、社会におけるコミュニケーションツツールの主翼を担っているからです。
ネットもメールも文字だらけ。
映像や絵文字もありますが、ビジネス(や研究)においては、言葉抜きに話は進みません。
就活だって、やはり言葉。そして言葉に見合う態度と姿勢。
文章表現力(読解力)があるかないかが、
そのまま将来の活躍の場の差につながってしまうとも言えます。
「格差」という現象は、言語においても見られると思います。
言葉を鍛えることの有意義性を疑う余地はない、と私には思えます。
他にも有意義なものはありますが、言葉の価値を下げる理由にはなりません。
職人が多く活躍していたころとは違い、
体や手の技術を鍛えるより
言葉や情報処理の能力を鍛えることの方が重要視されつつある現代です。
今後はもっと意図的に、表現とその中で示される思考力を伸ばしていく流れとなるでしょう。
(でも私は職人が好き。祖父も母も職人気質でした)
では、となるのです。
私がしていることは果たして、言葉の力を伸ばす働きかけとなっているのか、
その点が問題です。
ピアノは鍵盤に触れなければうまくなりませんし
テニスだって、ラケットをふらなければうまくなりません。
文章も、文章を書かずして、うまくはならない。
だから、定期的に「書く」機会を持つことは、決して意味のないことではない。
しかし「効果的に」伸ばせているか、
文章を書くことで「具体的に」どこがどう伸びるのか、
そういったこととなると、「絶対的なデータ」を示すことができません。
言葉が、コミュニケーションツールである以上、
できてもできなくても、楽しめたらいいね、とはいかない面があるのがつらいところです。
だからこそ、働きかけ甲斐があるとも言えますが、
他教科のように「正解・不正解」が明確ではないので、どれだけ伸びたのかが理解しにくい。
私には「よし、変化がみられる、よくなった!」と思えることが、
本人やご家族には、「そうなの?」となりやすい。
この点は、作文指導の難しさの一つです。
・・・つづく。
作文は主体性を養う [作文のチカラ]
名古屋で講座を開くにあたって、もう一度「作文とはなにか」を考え直しています。
今の子ども達に共通する特徴は何か、
作文は子どもたちのどんな力を育てるのか、
そんなことをとりとめもなく考えてメモを取っています。
先日、OECDの学力到達度調査(PISA)の結果を見直していました。
結果からいくつかの課題が挙げられていましたが、その中でふと気になったのは
記述式問題の無回答率が高かったということ。
そういえば、と思い出すのが子ども達の反応の変化です。
教室開設当初は、私の投げかけにすぐ答えを返す子どもが多かったように思います。
その様子はよく言えば「反応がよい」ということになりますが、
「ともかく速く、何かを返せばよい」といった印象も受けました。
たとえるなら、テニスのネットプレーのように、
前衛でぽんぽんと来た球を「返す」ことに一生懸命になっている感じなのです。
手元まで引き付けて、球をよく見て、どう相手に返すとよいか、
そこまで考えての「言葉」ではなかったのが気になって
「すぐ」ではなく、「十分に検討する間を持って」述べようという働きかけを
多くしていたように記憶しています。
では、今はどうかというと、
以前に比べて「すぐに」答えを返そうとする子は減りました。
それよりも、私の言葉をぼーっと聞いている子どもの姿が目に付くようになってきました。
話を聞いていないわけではないのです。
ただ、あまり表情が動かない。
そして、「自分に」働きかけられている、という感覚が薄い。
そんなふうに感じる子どもを、ちらちらと見かけるようになりました。
その人たちは、
「ね、どう思う、**君?」と名指しで声をかけて初めて、はっとして考え始めるのです。
テニスコートの中で、とんでくる球を目で追うけれど、
体は動かず、それを見送っている。
そんなイメージが浮かんできて、ひやりとしました。
記述式で無回答であるというのは、
主体的に物事を考える経験を十分に積んでいないせいもあるのではないかと思います。
無回答の子ども達に「考える力」がないとは思いません。
ただ、普段から、「自分のこと」として物事を見、疑い、考え、伝えるという機会を
彼らは十分に持っていないのではないかと思います。
受け身のままでは、人や社会に働きかける力を磨いていくことはできません。
そうなると、コミュニケーションをとることに自信を持てないでしょうし
受動的に周囲とかかわっていく方法しか知らないまま、大人になってしまいます。
文章を書くことは、能動的・主体的な活動です。
物事を多角的に見るということも
多様な見方を知った上で、自分の考えを組み立てていくということも
自分以外の人を納得させるよう書くということも
全て、主体的にかかわろうとしなければできないことです。
作文は主体性を養う、私はそう考えています。
現代社会で活躍するためには、PISA型学力が必要だとされています。
作文を書く時間を持つのは、
単に文章を上手に書けることを目指して、ということではありません。
正答が一つでないものを考え抜く力を養うのが、作文だと思っています。
そうそう、そのPISA型学力を伸ばすのによいワークブックがあります。
思考力を養うのにも、簡潔明瞭に意見を述べるのにも役立つ本です。
おススメです。
藤原流200字意見文トレーニング―未来を生き抜くための「柔らかアタマ」をつくろう!!
- 作者: 藤原 和博
- 出版社/メーカー: 光村図書出版
- 発売日: 2010/04
- メディア: 単行本
社会人基礎力 [作文のチカラ]
『社会人基礎力育成の手引き』という本を読んでいる。
経済産業省と河合塾とで出した本。
昔お世話になった、そして今でも尊敬している先輩が執筆・編集に携わっている。
社会人基礎力とは、
「職場や社会の中で多様な人々と共に仕事をしていくために必要な基礎的な力」のことで、
「前に踏み出す力(アクション)」
「考え抜く力(シンキング)」
「チームで働く力(チームワーク)」
という3つの力と、それらを構成する12の具体的な能力要素を指すそうだ。
どういうものかというと、
<「前に踏み出す力」の要素>
主体性・働きかけ力・実行力
<「考え抜く力」の要素>
課題発見力・計画力・創造力
<「チームで働く力」の要素>
発信力・傾聴力・柔軟性・状況把握力・規律性・ストレスコントロール力
「文章を書く」ということは、知識だけでは成し遂げられない。
もっと複合的な思索の上に成り立つものだ。
それに、作文に取り組むことは、
今、学業に励んでいる間にだけ益があるのではなく
将来社会に出てから力を発揮する際にも役立つことは多い。
そう思って場を保ち続けてきたが、この本を読んで、やはり、とその思いを新たにした。
主体的な取り組みがなければ、言葉は決して生まれない。
意見を述べるためには、課題を発見し、考えを煮詰め発展させていかねばならない。
作文は個人の作業なので、チームワークを育てる点では弱いが
多様な他者を理解し、発信したり傾聴したり受容したりということがなければ
文章は独りよがりのものになってしまう。
10年、20年先につながることをする。
ただ上手に書くことを(スキルを向上させることを)ねらうだけでなく、
多様な物事・価値観の本質を見抜き考え抜く力や、
社会の規律について深く理解しようとする姿勢、
他者の視点を意識しながら自分の思いを伝えようとする意欲、
「ことばの泉 作文教室」では、これらの力を刺激したいと思っている。
だからこそ、マニュアルに沿った指導はしないし
プリントを用いて横並びの授業もしない。
さらには、通信指導ではなく、場を設けての対面指導をしたいと思うのだ。
成せることは、教室のサイズに比例しない。
志は大きく! だ。
教室生が主体的に社会人基礎力を伸ばそうとするときのために
(たぶん、大学生か社会人になったときだろうが)
基礎力の基礎はすでに彼らの中にあることが、私の願い。
種まき、なのだ。
『言語力』 [作文のチカラ]
NHKの『追跡!AtoZ』という番組で「言語力」が取り上げられていました。
前半をうっかり見逃してしまって悔しい思いでいます。
ゲストのアートディレクターの佐藤可士和さんの言葉や、
ドイツの言語教育の様子を見たり聞いたりしているうちに
「ああ、そうなのだ、これは本当に重要なことなのだ」と
ぐらぐらするほどの思いにとらわれたからです。
多角的に見る、意見をスピーディに構築して述べるなどのトレーニングは
「トレーニング」ですから、それだけ、その場だけ、できることを目標としてはいけません。
しかし、そのトレーニングを通じて
「自分は考えられるし、言うこともできる」という自信がつくことは
その人が社会を生きぬく力となります。
佐藤さんは「言語力を磨くために心がけていること」として
「自問自答すること」を挙げていらっしゃいました。
私も子供たちに、自分が抱いた考えに対して、
それはなぜか、どういうことか、そう思うのが何に繋がるのかと
自分に何度も問いかけることを奨励しています。
深く掘り下げ明確につかむことができなければ、
「伝えたいこと=柱」のある文章は書けません。
番組を見終わった後、
もっと働きかけを磨きたい、もっと子ども達の力になれる場にしていきたい、
そう強く思いました。
とはいえ、自分の教室が「こういうときは、こう言えばいい」というような
テクニックを身につけさせる場になるのは嫌です。
言葉の意味と働きを知り、考えを深める力を自ら磨き、
「言葉」を使って他者とつながりあうことのできる人。
そういう人になるための種まきをしたいのです。
「言葉」は、人と繋がりあうことのできる手段であり、武器です。
重みのない言葉がメールで飛び交う今だからこそ、
情報のつまみ食いで「わかったつもり」になりやすい今だからこそ、
「受け手」の立場にばかりいて、主体的に働きかける場が少ない今だからこそ、
「書く・考える」作文に取り組むことが必要なのだと私は思います。
訂正したいこと [作文のチカラ]
先回の文章の中で、自分の気持ちにそぐわないと感じながらも、そのまま書いてしまった言葉があります。
更新してからもどうしても気になって、削除しようかと思ったのですが、その前に「なぜ、どんな風に『そぐわない』と感じるのか」を考えてみました。
気になるというのは、『書くことにかなり困難さを感じている人』のところです。
書くのが困難、苦手、と考えているのは誰かというと、本人もしくは家族、そして周囲の人(先生とか)です。このすべての人がそう思っている場合もありますし、本人はそう思っていなくても周囲がそう感じている、ということもあります。
しかし私は、書字が難しいとされる人でも、作文は書けるし、得意になれると思っています。
それはたぶん、「作文」の捉え方の違いによるものだと思います。
私にとって「よい作文」とは、正しい文法と表記で書かれた文章ではありません。
また、長く書かれたものが「よい作文」でもありません。
私にとって質の高い作文とは、その人が今持つ力を全て(に近いものを)使って、書かれたもののことです。
ですから、たった3行でも、それがその人が生み出せる精一杯の言葉であったとしたら、それこそが「書けた」ということになります。
逆に言えば、3枚、4枚と書かれた文章であっても、見栄えのよい言葉を連ねただけで本心は語っていない、あるいは本心を見つめようとしていない文章の場合は、「書けている」と私は思いません。
ですから、私は名古屋のあるグループの人達と作文をするにあたって、「この人達は作文を苦手だと思っている」「できれば書きたくないと感じている」とは思いましたが、「作文が書けない人達だ」とは思いませんでした。
むしろ、「きっかけさえつかめれば、この人達は書ける」と思っていました。
作文指導で一番大切なのは、この点なのかもしれません。
多くの人は、「作文が書けない」ということを、「量が書けない」「書くことを思いつきにくい」と定義しています。
しかし、それが「書けない」ということではありません。
「書ける」というのは、自分と向き合って、伝えたいことを伝えたい形で言葉にすることです。
このことを本人と周囲の人に理解してもらうのが、作文指導において最初に取り組むべきことであり、一番大切なことではないかと私は思っています。
名古屋のグループの人達は、幸いなことに「書く」ということの本当の意味を理解してくれました。
彼らは「書けます」。真摯に己と向き合い、言葉を紡いでいます。
確かに、「っ」が抜けたり、主述が一致しなかったりということはあります。軽減はしてきましたが、ミスなく書くことは難しそうです(でも、誰でもそうですよね)。
私も、そして彼らも、書くことが困難とは感じていません。
書くことが困難と思っていないのに、他の人にわかってもらうために便宜上「困難」と定義付けた、それが私の違和感の正体でした。
彼らに申し訳ないことをしてしまいました。
書けるのに、困難と言ってしまった。
なんと情けない。
早く謝りたくて、土曜の更新を前倒しして書きました。
彼らはこの文章を読みませんが、私がそういう括りをしたことをどこかでちゃんと察する気がします。
彼らの前に立って恥ずかしく思うような文章を書かないよう、今回のことは自分への戒めとしたいと思います。