「討論と意見文」が目指すもの [課題―意見文]
10月は「討論と意見文」を多くのクラスで行いました。
テーマはクラスによってさまざま。
「ストーリーを楽しむなら、映画と本、どちらがよいか」
「プレゼントは手作りがよいか、買ったもののほうがよいか」
「中学生に制服は必要か」
「学力順でクラス編成することの是非」
などです。
週1クラスでは、討論に1コマ、作文に1コマ(クラスによっては2コマ)使いました。
意見文においては、「書く」作業以上に、多角的に検討する時間が大切です。
考えがないのに、あるいは「こうだ」と思うことへの理由や根拠がないのに、
文章を書くことはできません。
「作文が苦手」と感じている子どもたちの多くは、「書くことがない」と言います。
翻訳すると、「何を書いてよいかわからない」
「そもそも、何をどう考えて“意見”とすればよいのかわからない」となります。
ですから、書く力を伸ばしたいなら、まずものの見方を広げること、
そして、一つの見方から考えを発展させる力を身につけていくことが不可欠です。
そのために、討論という場を設けて、
他者の見方や意見の伝え方を知って、試す機会にしています。
討論では、弱点を強みに変える方法にも触れていきます。
たとえば、
「プレゼントは買うとお金がかかる。手作りなら家にあるものを利用すればよいから、少ないお小遣いの中でもなんとかなる」
という意見が出たとします。
買えばお金がかかる、それはどうしようもありません。
しかし、と考えます。
お金をかけるからこそ、よいのでは? と発想して、
「その少ないお小遣いの中で贈り物をするのだから、それだけ相手を大事に思っていることがわかってもらえる」
「お金がかかっているからこそ、丈夫で良質なものをプレゼントできる。丈夫であれば、相手にずっと使ってもらえるので贈った人の気持ちが長い間相手の傍に残る」
というように切り返してみればよいのです。
そうすると、意見を提示した側も、反論をもとにまた考えを発展させられます。
上の意見は実際に討論の中で出たものです。
反論され、反論することで、初めは考えが及ばなかったところまで到達することができます。
よい刺激となるので、教室では討論を多く取り入れています。
ただ、討論の目的が「相手を打ち負かすこと」になるのはどうか、とは考えています。
「ああ言えばこう言う」技術だけが磨かれるのは本意ではありませんし
相手を言い負かして得意になるのもどうかと思います。
ですから、討論が十分になされて互いに考えを深め合ったと感じる頃に
それぞれの立場を外して、「そもそも~」と原点に目を向ける働きかけをしています。
「そもそも、人はなぜ贈り物をするのだろう」「贈り物に何の意味があるのだろう」
「制服を着るということは、10代半ばの人たちに、どんな考え方や体験をさせることになるのだろう」
「10代半ばの人たちが、“学力”という一つの側面を大きく取り上げ評価される(する)ことにどんな意味があるのだろう」
「そもそも、中学校という場は、なにを目指す場なのだろう」
意見文を書く上では、読み手を納得させるように書くことが求められますが
考えを巡らすことの目的は、「よいか・悪いか」に二分することではなく、
屁理屈を使ってまでも相手を言い負かすことでもありません。
また、道徳的に正しいことのみを口にすればよいというものでもありません。
私たちはどう生きるべきか。各々の生きる姿勢を問うことが、
意見文に取り組む目的だと私は考えています。
教えられた正しいことを「答え」にすればマルではありません。
自分は今、何を感じているか。
どうしたいと願っているか。
この社会を読み解き、その中でどう生きるかを考える機会にする、
それが意見文に取り組む際のねらいです。
一度や二度取り組んだところで、考える手法を手に入れることはできません。
焦らずじっくり、子どもたち自身は気づいていない「意見の優れた部分」を指摘しながら
「考える手法」がそれぞれの武器となるよう、働きかけに努めています。
作文の型 [課題―意見文]
1・2学期は「豊かに語ること」に重きを置いて取り組みました。
多少の論点のずれなど気にせず、考えを深めてとにかく語れ、と働きかけてきました。
とはいえ、多くの読者に自分の思いを伝えるには、「わかりやすさ」も無視できません。
考えを整理するための手段、確実に思いを読み手に届けるための手段として、『作文の型』を紹介しました。
作文の型を使えば、言いたいことが明快になりますし、「作文らしく」見えます。
ですから、最初からそれを用いて作文を書かせれば簡単かもしれません。
しかし、私がそれをしないのは、型を用いると、型を手助けとして自分の考えを整理するのではなく、型に入るような考えだけを子ども達が選んでしまうのでは、と危惧するからです。
実際に教室の子に型を紹介すると、型に当てはめる部分しか考えず、おかずが一切なくなる人がいます。自分が何を考えているのか、深く問いかけることもしないで、「答え」を作ろうとしてしまいます。
あるいは、型を目の前にして途方に暮れ、「書きたいことがない」と言い始める人もいます。語るべき体験も疑問も、型に当てはめようとすると色あせて見えるからでしょうか、普段個性的なものの見方をする人も、通り一遍の無機質な考えしか出てこなくなるようです。
もちろん、型が助けてくれることは多くあります。
人によっては、型があるからこそ、考えを整理し伝えやすくなることもあるでしょう。
しかし難しさは、型に当てはめることより、当てはめる前の「何を語るか」のアイディア出しの方にあります。
日常生活の中から、語るべきことを見つける目。
疑問を持つ心。
思いを巡らし、考えを深めていく思索的な頭の働き。
これを発信したい、という強い思い。
これらを「型」が刺激することは、なかなかありません。
刺激するのは、人と人との交わりです。
話し手がいて、聞き手がいて、攻撃しあうのではなく、ことばの交換により考えを深めあう。
そういう場が、語ろうとする姿勢を育むのでは、と思っています。
ですから、最初から「型」を教えて当てはめることを私は好みません。
1・2学期の長い時間をかけて、豊かに語る力をまず刺激したい、と思っています。
型は道具。道具はうまく使うもので、道具に振り回されてはなりません。
それを伝えながら、道具である「型」の扱い方を知る機会を、3学期に設けています。
「型」を紹介した本に、気に入っているものがあります。
誰でも厚く論を展開していけるよう、わかりやすく説明・指導されています。このわかりやすさは素晴らしい、こういう人が紹介している「型」なら使ってまちがいなし、と思うものです。
私が持っている本は少し前のものなので、もっとわかりやすい新刊が出ているかもしれませんが、ご紹介しておきます。ご興味をお持ちでしたら一度ご覧ください。
高校入試受かる!小論文―「小論文」って「作文」とどう違う? (高校合格100%ブックス)
- 作者: 樋口 裕一
- 出版社/メーカー: 学研
- 発売日: 2003/10
- メディア: 単行本
樋口裕一のカンペキ作文塾―ニュースで「読む」「書く」「考える」
- 作者: 樋口 裕一
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2006/05
- メディア: 大型本
今、必要なことを [課題―意見文]
今週・先週は、ディベート&意見文ウィーク。 多くのクラスで意見文に取り組んだ。
1時間目は討論のみ、2時間目に作文。
今回のテーマは、『おにぎりとサンドイッチ、どちらがよいか』
『休日は出かけるほうがいいか、家でゆっくりするほうがいいか』 『新聞は必要か』 などである。
作文の際は、理由を羅列するのではなく、その証拠となる例や説明をつけてほしいと伝えた。
読み手を説得するために書くのだ。
メモのように考えを連ねるだけでは、相手をうなずかせることはできない。
一番オーソドックスな型は、
最初に「ぼくはAよりBの方がいいと思う」と自分の立場を明らかにし
次に理由のいくつかを例を挙げながら伝え (なぜなら、~だからだ。たとえば、~のように・・・)
最後に、「このように、Bの方が・・・である」「よって、ぼくはAよりBの方がいいと思うのだ」などのように
自分の考え(立場)を再度アピールして終える。
理由は、一つの観点で少なくとも5行程度は述べるといい。
二つの立場を比較するように書いたり、例を挙げて詳細に伝えたりすれば
そのくらいの分量は必要になる。
と、いいつつ、長い間作文指導をしていると、ついつい型通りのものではもの足りなくなってしまう。
もう少し『論ずる』ことはできないか、と考えてしまう。
人は、社会では、と一般化しつつも、体験を素材として「我がこと」を語るなど、
型通りの進め方でないものは、いくらでもある。
それに、ほんの少し背伸びをして書いてみることで、
今までとは違ったエッセンスを文章に組み入れることもできる。
そう思うと、ついつい欲を出して、「論ぜよ!」と働きかけてしまう。
子どもたちは、私の働きかけによく応えて、それぞれに「論ずる」つもりで書いてくれる。
ぴんとこなくても、こういうことかな? とそれぞれの解釈で挑んでくれる。
それらの記述に、はっとすることも多い。
論じている文章も、ちゃんとある。
しかし、型は読み手の理解を得やすいものでもあるのだ。
それをおろそかにしてはならない。
自分が子どもよりも先に飽きてしまってはいけないのだ。
型を習得できる子なら、そこから抜け出していくことも、もちろんできる。
あわててはいけない。 飽きてはいけない。
この働きかけは、子ども達に必要なことなのか、それとも私に、なのか。
気をつけていないと、ごちゃまぜにしてしまう。
子ども達の柔軟性に頼りすぎてはいけない。
年度半ば、皆が力を伸ばしてくる時期だからこそ、私の気を引き締めなくてはならない、と思う。