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2018年夏期講座 読解意見文コースのご報告② [課題―読解]

夏期の読解は、岐阜・名古屋ともに4回ずつ行いました。
そこで、前半2回と後半2回とで、やり方を変えてみました。

前半の2作品は日本の短編を選びました。
宮沢賢治『注文の多い料理店』、芥川龍之介『蜘蛛の糸』。
参加者には事前に読んでおいてもらいましたが、
授業内でも文章を読みました。

後半の2作品は、海外のもの。
グリム『白雪姫』と、カルロ・コッロディー『ピノッキオの冒険』。
こちらは、授業内ではおおまかにあらすじを確認しただけで
読むことはせずに行いました。

前半の2作品の読解は、文章を「読む」ので
用いられている言葉や場面の展開・構造に注目したり、
登場人物の行動について「なぜそうしたのか」と考えたりすることをメインにしました。
一例を挙げるなら、
『注文の多い料理店』では、
「二人の紳士は、なにかがおかしいと思っているのに、なぜ扉を開け進み続けたのか」だとか、
『蜘蛛の糸』では、
「お釈迦様は、カンダタを本当に救おうとしたのか」
「蜘蛛の糸がきれた本当の理由は何か(おりろ、と叫んだのがあさましかったから、ではなく)」
などが挙げられます。

自分が解き明かしたい問いを持ったら、
それに対する考えを白い紙に書き、さらにその考えに対して
「なぜ? どういうこと? 本当に? たとえば?」と問いを重ね、
思うことをまたメモとして紙に残します。
そうやって「考えを紙上で展開する」ことに取り組んでもらいました。

後半の2作品においては、「言葉そのもの」を扱いませんでした。
話を遠くから眺めるつもりで、
「この話のカギとなるものは何か」、
つまりは、「何があったから、この話は生まれることになったか」を
最初に考えました。

『白雪姫』なら、「鏡」です。
『ピノッキオの冒険』なら、「人形(と人間)」そして「人間になろうとすること」です。

後半の講座では、あえて話の中身については分析せず、
この世界(=本の外にある私たちの世界)についての読みを中心に行いました。

『白雪姫』では
鏡とは何か、人はなぜ鏡を見るのか、
鏡で何を見ようとするのか、
鏡と同じような役割を果たすものは何か(友人とか噂とか点数とか)
そして、自分は鏡で何を見たいのか、を考えました。

『ピノッキオの冒険』では
人間と人形の違いは何か、
自分は人間と言えるか、その証拠はなにか、
現代ではもう当たり前の、ロボットやAIを比較対象として考え、
さらには、
自分は「どう」なろうとしているか(どんな職業に就きたいか、ではなく)、
自分が自分に求める姿はどのようなものかを考えてもらいました。

非常に難しい問いです。
答えなど簡単には出ません。
ですから、完璧な答えを出せと言っているのではないよ、と伝えました。
十年たったら、きっと考え方は変わっているだろうから、
「今の自分」だからこそ言える何かを書き留めておく、
そんなつもりで臨んでほしいと求めました。

「白雪姫」の読解なのに、ぜんぜん白雪姫のことは出てこないけれど、いいのでしょうか、と
保護者のかたから質問を受けました。
そうですよね、そう思われて当然です。
もっと時間があれば、自分の鏡の見方を考え抜いた後で、
継母と鏡の関係について考察し、
二つを重ね合わせてさらに考えを深めていく部分を持つといいと思います。

しかし、「鏡」が人に及ぼす力について、
しっかりと「今のこの世」に置き換えて考えてみないと、
文章は、「継母の鏡の見方は良いか・悪いか」を論じるだけのものになりやすいのです。

小学生・中学生は、この二つに分けて論じるのが好きです。
考えを述べるのに、一番やりやすい方法だからです。
好きか嫌いか、正しいか間違っているか、得か損か。
それで「意見を言った」つもりになってしまいます。

読み解くことは、善悪のどちらかに決めることではありません。
矛盾だらけの私たち人間の、ありかた生きかたについて
深く問う機会としていくものです。
鏡を見ることで不安も生まれますが、自信も生まれます。
姿を確認するということの中には、両面あります。
今のその子が、どこに着目してどうとらえていくか、
また、そのとらえたことを「どんな言葉で」表そうとするか、
その全てが「今のその人」の反映です。

ただし、書かれたことが例えば幼くても、極論に走っていても、
それが「その子の真の姿」ということではありません。
言葉にできなかったことはいくらでもあって、
考えの芽はその人の中にあるのだけれど、
今、なにかを文字に置き換えようとするとこうなった、ということでしかありません。
やろうとしてみたけれど、うまくいかずに諦めたもののあれば、
強く何かを述べたくて、どこかで聞きかじった展開を真似してみた、というものもあります。

作文における評価は、
「今、出てきたもの」だけで下してはいけない、と私は思います。
何を試したか、
それがどんな形で表れることになったか、
今までと比べてどう変わったか、
これからどんな変化に続きそうか、と、
今だけでなく、少し前と少し先、そしてずっと先まで見通して行うべきです。
そして、それを受けて、
「今のその人」に響く言葉で、伝え返すこと、
何を伝え、何はまだ言わずにおくかを考えて伝えることが
指導者としてすべきことだと思います。

保護者のかたは、その時間のお子さんの様子をご覧になれません。
ですから、「これでいいのかしら」と思われて当然です。
私には、保護者のかたにそのような疑問を抱かせないよう、
説明する責任があるのですが
十分にはできていないと反省すること多く…申し訳ありません。

と同時に、
私しか、その場にいないのだから、
参加してくれる子どもたちに、
私が適切に「返す言葉」を選んで伝えるようにせねばなりません。
この責任もかなり重い。
今年の夏は、〇×がつかない作文だからこその難しさを
痛感した夏になりました。
次回、本制作について。

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2018年夏期講座 読解意見文コースのご報告① [課題―読解]

この夏は、暑かったことしか思い出せないような夏でしたね
外に出ることをためらうほどの気温でしたが、
それでも夏期講座においでいただき、ありがとうとございました!
今週の本制作で、夏期講座は終了です。
多くの方にご参加いただきました。
誠にありがとうございました!

夏期講座で、何をどんなふうに進めたかをご案内して、
この夏の締めとしたいと思います。

まずは「読解意見文コース」から。

この講座は、毎月日曜に開催している「単科」の
「読解・意見文講座」を、時間を長くして行う講座でした。
普段は、90分の中で「読み・討論(分析/考察)・作文・コメントと返却」を行います。
この講座では、意見が単なる「感想」で終わらないよう、
多角的に読み解くことに重点をおきます。
となると、どうしても「書く」時間が十分に取れず・・・。
そこで、夏休みは通常の2コマ分の時間を使って、
前半は「読みと討論」、後半は「作文とコメント返却」で実施してみよう、と考えました。

しかし、思ったようにはいかないものですね。
読み解きに十分に時間をとると、
その分「なぜなのか、どういうことか」を念入りに考えたくなります。
となると、当然迷いが生じたり矛盾に気づいたりして
何度も何度も考えの掘り起こしをすることになりました。
よって、じっくり考えることはできたものの、
文章としては、「試行錯誤中」のものが多くなりました。
「見える成果」としては、まだまだこれから、という感じがするものだったと思います。
しかし、参加者全員が、いつもよりも「きちんと」迷ったり、
何かを見出そうと時間をかけたりしたことは、間違いありません。
この経験が、今後の「読み解く力」の伸びにつながっていくだろうと思っています。

数人は、読解講座で行った分析と見出した論旨を用いて、自宅で、
学校に提出する作文として仕上げました。
講座後、見てほしいと言って持ってきてくれたので、読ませてもらいました。
どれも「伝えたいこと=軸」が明確で、
しかも、単なる思いつきではなく、
自分やこの世界に置き換えて考えたものになっていました。
いつもの単科の時間だけではできないレベルのものでした。
初めての試みでしたが、何度か続けたら、意味と効果がはかれるかもしれない、と思いました。

以上、総括的なこと。
細かなやり方については、次回。

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一寸法師と「鼻」 [課題―読解]

あるクラスでは、一寸法師を読み解いた翌週、芥川の『鼻』を読みました。
何が共通していて、何が違うか、考えてみようと投げかけ
皆で考えを出し合いました。

「鼻の内供も一寸法師も、圧倒的な違いを生まれた時から持っている。」
ということを言った子がいました。
生まれた時から違いを持つ。
いい着眼点です。
本当はみんながそうなのに、それに気づいていないとか、
目に見える形で違いを突きつけられて生きるとはどのようか、とか、
考えてみたくなります。

「鼻の内供はコンプレックスの自分の鼻自体を短くしようとしたけれど
一寸法師は背を高くするために都に行ったのではない。
直接、何かを直すことをしたか、していないかに違いがある」
という意見も出ました。
人の行動の目指すものの違いが何を生むか。これもテーマとなります。

「同じ」や「違う」を見つけることは、
作文のテーマとなることを見つけることでもあります。
文中には
『ただ人と違うのが嫌というだけで自分の特徴を無くした。一寸ぼうしとは逆に、自分の姿を見ようとしもしないで鼻を短くしたのだと思う。』
とありました。

絵本の読解② 本文の分析 [課題―読解]

途中になっていた絵本の読解。続きです。

あるクラスでは、『おおきな木』の本文読解のために
原文、本田氏による訳、村上氏による訳を用意し、
それぞれが持つ味わいと言葉の置き方について
気が付くことを討論しました。

本田氏の訳は、リズムがあって子どもに親しみやすくなっているとか
村上氏のものは静かな感じで、ゆったりと響いてくるとか
そういったことを気が付くままに述べました。
しかし、なんとなく、ではなく
どの部分のどういった表現が、どのような効果を上げているか、
それは何をねらってのものかを
できるだけ明らかにして述べるようにしてもらいました。

今回は「感想」で終わらないことをねらっての取り組みでした。
ですから、印象の出所を意識することをわざとしてもらいました。
また、3人の言葉は「それしかない」と思って選ばれたものです。
言葉から、表現者の意図やテーマを見抜こうとする姿勢を持ってもらいたいと考え、
できるだけ「一言感想」で終えないように、言葉を継いでもらいました。

討論で出たことは他に、
・原文では、いくら年をとっても the boy と表されている。
しかし、本田氏の訳では、年を取った少年を「男」と表す。
村上氏は「少年」で最後まで通す。
本田氏は読む人(=こども)が混乱しないように大人になった少年は「男」とかえたのか。
・木は 「she」となっている。でも本田氏の訳では、木は男性っぽい。村上氏は女性。
この時代(1976年)の木のイメージは男性?
・なんども繰り返される the tree was happy. 
本田氏は「うれしい」と訳し、村上氏は「しあわせ」。なにをねらう?
うれしい、は気持ち、感情、動き。
しあわせは状態。 何がどう違うのだろう。

そういう話をしているうちに、もう少し奥に入った意見も出てきます。
・これは木と会話しているように感じない。
少年はものを言わぬ木から、自分のほしい言葉や答えを勝手に想像しているように思える。
・ほしいほしいと言うばかりで少年は何も返そうとしない。なぜ?
→返さないといけないの? なぜ返すべきなの?
・この関係は親子の関係? 親は子になんでも与え続ける? 見返りを求めずに?
・少年はなぜ何度も戻ってくる?
・少年は転機の時に帰ってくる。何かを確認するために帰ってくるみたいだ。
・「And the tree was happy...but not really.」
本田氏は「だけどそれはほんとかな」と訳し、村上氏は「なんてなれませんよね」と訳す。
このちがいは?
本田氏は「考えてみてほしい」という読み手へのサイン。
村上氏は、つぶやくよう。
but not really.は無いほうがより考えさせられるように思う。
・しあわせってなんだろう? なにが幸せ?

などなど、いくつも出ました。
このクラスには、小学生から高校生までが参加しています。
小学生だから難しいだろう、高校生だから易しく感じるだろう、
そういったことは全くありません。
参加している高校生からは「年下の人たちの感性の鋭さにびっくりさせられる」という言葉をもらっています。
この読解においても、互いが持つ感性の違いを生かして
幅広い討論ができました。

同年齢の人たちを集めてやるほうが
その年齢の発達に応じた課題が用意できるし、より的確に力を伸ばせるのでは、という
見方もあるでしょうが、
年齢の違いがもたらす気づきや背伸びが
子どもたちを「決められた」方向に向けずに済んでいいように思います。
だから私は、「年齢」によってテーマを選ぶことはしません。
ちなみに先週のこのクラスは、18歳から投票権を得ることを皮切りに、
集団的自衛権とある高校の教科書に載っていた
「である」価値と「する」価値についての文章を絡め、
時事テーマ作文に取り組んでいます。

作文の濃さ・深さはそれこそ千差万別。年齢によりません。
高校生でも、普段の観察力と問題意識がなければ上滑りの文章になりますし
小学生も、学校でやっている「まとめ作文」的なものなら、
「考え深める」取り組みはなされていません。

それを、ぐっと踏みとどまらせて、この教室においては
表現者としてテーマをもって文章に臨むことと
読み手を想定して言葉を選び構成を練ることに
挑んでもらいたいと思っています。

数回だけでは成せぬことです。
成果をすぐに求めず、「今」紙上に刻んだ言葉がその道の途上であると考え
コメントを返したいと考えています。

長くなりました。
次回は、保護者の方からよく質問される
「感想文の本の選び方」について書きたいと思います。


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絵本の読解① 絵と装丁を分析 [課題―読解]

ブログ、作ります! と宣言したものの
先週末は体の調子をなぜか崩して起き上がることができなかった宇野です。
あああ、情けない。

とりあえず、新しいブログの登録はすませましたが
まだお見せできる状態ではないので、こちらは後日。
教室での講座について、先にこちらに書くことにしました。

金曜クラスではシェル・シルヴァスタインの「大きな木」を用いて読解をしました。
前のブログに書いたように、感想では終わってほしくなかったので
今回は
1 絵と装丁を分析
2 本文を分析
3 分析をもとに作文
の流れで授業を行いました。

常々、絵やタイトルからも読解してねと言っていますが
「言う」だけではなかなか実践はできないものです。
ですからちゃんと機会を設けてやってみよう、と考えました。
初回は絵と装丁から。
言葉に気を取られないように、原書を用意しました。

まずは表紙。
そこに描かれているものを見ます。
色と距離と空間、手と顔の表情。構図。見せているものと見せていないものをつかみます。
この絵本をご覧になった方はご存じだと思いますが
鮮やかな緑の装丁の中に、赤いリンゴが一つ、
木の腕のような枝から、まだ幼い少年へと落とされています。
少年の着ているズボンも赤です。赤はそれだけ。他は緑です。
緑と赤という補色の組み合わせ、
木と少年の距離、
木のてっぺんは見せずにいる構図、
これらはもちろん「わざと」です。
「わざと」なのだけれど、普段そんなことは気にしません。
ですからわざと、作者がしている「わざと」の中にどんな意図があるかを考えてみました。

同様に、中のページも見ていきます。
なぜ線だけで描かれているのか(色がないのか)
すべてのページに共通することは何か
ページが進むと何が変化していくか
気がつくことをどんどん言ってもらいました。

背景がないのは、世界が木と少年のふたりだけであることを言いたいからだとか
木には顔がないから枝が気持ちを知らせているとか
(だけどもしこれが日本の作家なら、木は不動で枝で表情を出したりしないと思う、とか)
少年はどのページも上を向いていて、それは二人の関係(木がいつも年上、あるいは見上げる存在)を表しているとか
木の根元の草の茂り具合で人の行き来のなさを示しているとか
木のてっぺんが描かれないのは、少年が木を上から見下ろすことがないからだとか
いつも同じ構図なのは、「変わらない場所」を意味しているとか
そんな意見が出ました。

一つの本を読み解くのに、その1冊を深く掘り下げるのは欠かせませんが
横に広げていくのもよい手法です。
同じ作家の別の作品を持ってきて
どこが同じでどこが違うかと見てみるのもいいですね。
作家の得意な手法が分かりますし、こだわっている点も明らかになります。
今回もシルヴァスタインの他の絵本を用意して、そっとわきに置いておきました。


そしてタイトル。

「The Giving Tree」

これが日本では「おおきな木」になるのですね。
なぜgiving tree がおおきな木、になるのでしょう。
訳者はなにをねらったのでしょう。
ちなみに表紙の絵を見て「男か女か」と尋ねたら、半数に分かれました。
原書では木は「she」とあらわされています。
しかし、本田綿一郎氏訳では男性っぽく木は話し
村上春樹氏訳のものでは女性として描かれています。
同じ本でも、訳す人が違うと印象が変わります。
次回は、原文と訳した文とを見比べてみて
その「差」と、それぞれの意図とをつかむことをしよう、と言って、初回は終わりました。

本を読んだ、と思っても、
それは「ある人の解釈」を通して読んだ、ということかもしれません。
同じ本を原書と翻訳されたもの2種で計3種で読み比べる、
そんなふうに「読む」のもおもしろくはありませんか?
続きは次回に。


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