『感じない子ども こころを扱えない大人』 [作文のチカラ]
作文には自分の気持ちを書くもの、というイメージがあるが、
実のところ、そんなに簡単には文章に「気持ち」は出てこない。
「周囲で起きたこと・自分がしたこと」は書いても、
その中で自分がどう感じただとか、どんな思いが沸き起こってきたかだとかは、顔を出していないことが多い。
言葉を間違いなく表記できるようになった後にぶつかるのが、この壁だ。
うまく書けているのだけど、何か物足りない。 本心を語っているように思えない。
表面をうまく均して美しく見せているが、奥にある思いを覆ってしまっているような気がするのだ。
そういう人の場合は、心に何かストッパーのようなものがあるように思う。
正しいことしか書いてはいけない、
自分の悪い面は書いてはいけない (悪い気持ちがあることを知られてはならない)、
そんなふうに思い込んでいる場合もあるし、
自分の気持ちをつかむこと自体が、難しい人の場合もある。
念のため言っておくが、そういう人が「悪い」とも、そういう考えが「いけない」とも言っていない。
自分をさらけ出すのは勇気がいる。
ましてや書くとなると、長い間この世に残る上、誰が読むか分からない。
慎重になるのも仕方がないことだ。
子ども達の中には、自分の気持ちをうまく拾い上げることができない人がいる。
嫌だ、悲しい、という気持ちに気づけずに、単に「こわい」という感覚だけが表面化する人もいる。
何を感じているのか。 どう思っていたのか。
それを語ることができれば、自分自身と向き合う力を育てられる気がしている。
そんなことを考えていたときに、書店で「ああ、これだ!」と思う本に出合った。
袰岩奈々氏の『感じない子ども こころを扱えない大人』である。
本の中で、袰岩氏は
『気持ちを聞くときには、「もしも自分だったら、どんなことを感じるだろう」と
イマジネーションを働かせることが大切』 と述べている。
『そして、「もしかしたら、こんな気持ちかも」「自分だったらこんなことを感じる」ということを相手に伝え
「あなたはどんな感じ?」と聞いてみる』 とある。
そういえば授業でも、生活文を書く際には
そのときのテーマで、「私」ならこんなことを書くかも、と自分の話をよくするのを思い出した。
「私」と「私の家族」の話(大抵は、ばか話!)を聞きながら、
子ども達は「なんだ、そんなことでいいの?」「そういうんだったら自分にもある」という顔つきになってくる。
そうか、このアプローチはやはり効果的だったんだ、と少し嬉しくなる。
子ども達の作文を読めば、自分をさらけ出して話すことに効果があるのは、それなりに感じられる。
だからそれを続けていたけれど、他にも同じように考える人がいるのだと思うと
そうか、そうかという気持ちになる(たぶん安心するのだ。これでよかった、と)。
と同時に、最近私はこの「基本」を忘れてなかった? と振り返る機会にもなった。
この夏は、「気持ち」を語ることをテーマにしよう、と決めた。
ひょっとしたら、論理的に語ることよりも難しいかもしれない。 語る型がないからだ。
しかし、内面を言語化することで、変われる人もいるかもしれない。
私自身のためにも、この夏のテーマは、これでいこうと思う。
最後に、袰岩氏の言葉をもう一度数行だけ、引用させていただく。
「別に」
「わかんない」
子どもたちは、すぐ口にする。でも、彼らは本当はわかっているのだ。わかっている“その感じ”を話す言葉がみつからない。どういうふうに説明すればいいのかわからない。大人に自分のことを説明していいんだ、ということを知らない。説明しても、大人はわかってくれるはずがない・・・。だから、子どもは言う。「わかんない」と。
「わかんない」の後ろに隠れた“その感じ”を、少しでも子どもが言葉で表現できるように、大人は早急に答えを求めることなく、順序だてた訓練を子どもと一緒に行っていくことが大事だと思う。
そうなのだ。
「わかんない」「しらん」「めんどくさい」「ウザイ」「どうでもいいし」「オレには関係ないし」
思考を停止させる言葉。 これらを使わなくてもいい人になってほしいのだ。 子ども達に。
自分の気持ちに気づくのにも、他者と気持ちを語り合うのにも、ヒントとなることが載っている。
ぜひ、お手にとってみてほしい。
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