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ことば絵日記「誰かの背中」 [光る一文]

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「ことば絵日記」と名をつけて、毎週インスタでお題を出しています。

場景を思い浮かべて、

色、形、動き、光と風、音と匂いと手触り、

五感で捉えた「その場所・そのとき」を

ことばでスケッチしてみます。

 

インスタは気軽に見るものでしょうから

実際に書かなくても、まずは思い描くだけでもいいかなと思っています。

ねらいは「文章が上手くなること」ではありませんので。

「見る目を育てる、視点を増やす」ことにあります。

 

でもやっぱり試しに書いてもらいたいなと思って

4月の大人文章講座で取り組んでもらいました。

 

大人文章講座は作家になるためのものではなく、

日々の表現に少しだけ違うエッセンスをプラスしてみるもの、

より「ことばに親しむ」ためのものです。

 

それでは、一部をご紹介。

テーマは「誰かの背中」です。

 

「木目のカウンターから見えるオープンキッチンには仕込まれた料理が見える。みかん箱に似た大きさのプラスチック容器には、丸鶏がつけられている。表面に浮かんでいる茶色の粉はスパイスだ。(中略)50センチ以上あるボウルや30センチ以上深さがあるずんどう鍋。大きくて食洗機に一つしか入らないので、一つずつ洗っている。話すこともなく黙々と手際良く作業している。先週店が移転したばかりだが道具は底が黒くなっていて、長く使っているのがわかる。着ているTシャツは新しいが、手際や道具から貫禄を感じる。」

 

「背中」の描写以外のところを抜粋したので

「テーマから外れているのでは?」

と思われたかもしれません。

でも、それでもいいのです。

この書き手が、店内を細かく描写できたのは、

「店員がこちらを見ていないから」です。

背を向けているから、

新しくなった店の細かなところまで眺められ、

店員の仕事ぶりもじっくり観察できました。

「背中」があるからこその文章です。

 

では、もうひとつご紹介。

 

「(前略)青いそろばん教室の指定リュックを背負った息子が自転車にまたがる。「お母さん行ってきます」ニッと笑ってこぎ始める。私は家の前の道路の真ん中まで出て「行ってらっしゃい」と彼の背中を見送る。今日はお気に入りの青いジャージの上下を着ている。リュックも青、くつも青、何だか笑える。2こぎ3こぎ自転車を進めると私の方を振り返り手をふる。リュックが左右にゆれ、自転車が少しよろける。体勢を整えながらまた背をむけて走り出す。しかしだ。また2こぎ3こぎするとこちらを振り返り手をふってくる。私もふり返す。(中略)彼は道路の角を曲がって行く。道路に面したどこかの家の夕食のにおいがただよってくる。」

 

いいですよね。母と子の会話を感じます。

この「手をふる会話」、10回以上も続いたとか。

忘れ難い日常の一コマになることでしょう。

 

ところで講座では、文章をペンで書いてもらっています。

推敲のあとも見せてもらいます。

この書き手の推敲は、なかなか良くて、

線で消された部分の代わりに置かれた言葉は、

どれも読み手の想像力を刺激するものでした。

もう少し場を見せてみよう、

感想でおわらないようにしよう、

と心がけているからこそ増えた言葉です。

「視点を豊かに」という私の願いを受け取ってくれているようで、嬉しくなりました。

 

ブログをご覧の皆様も、

一度ぜひお試しください!

「ことば絵日記」は無料ですよ、お好きに楽しんでくださいね。

 

インスタはこちら!
https://www.instagram.com/kotobanoizumi/

 



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2017年1月の課題 [光る一文]

2017年の初めの月もあっという間に終わり・・・、
ではありますが、このひと月の間に、いろいろと決断をしました。
昨年からずっと悶々としていたのですが、
決めたらようやくすっきりできました。
動き出したことを止めないよう、
小さな恐怖に負けないよう、
足を前に運んでいこうと思います。
といいつつ、まだはっきりしていないことも多いので、
お伝えできるようになったら、このブログでも
私の決断について、お知らせしようと思います。

さて、1月の課題。
本科では、生活文と描写を中心に行いました。
最初の週は、冬休みの出来事をドラマ仕立てで書く課題。
2週目は、描写のレッスン。
ちょうどこの頃、雪が降りましたので、
雪や「寒さ」「冷たさ」の描写を行いました。

1週目のドラマ仕立ての課題では、「楽しかった」「面白かった」を安易に使わないように、
実際の出来事を三人称で書く、というようにしました。
ですから、自分のことも、例えば書き手が祐樹君なら「祐樹は急に立ち上がった」と書き、
お母さん、お父さんのことも名前で(「篤がぱっと身を引く」とか)書きます。
誰か別の人間が、自分たちのしていることを見て書いているふうですね。
三人称で書くのですから、自分の気持ちを表すのにも
「~と思った」とは書けません。話者は自分ではありませんから。
ということで、気持ちは、「目を細めた」とか「大きく息を吐いた」とか
表情や仕草で表すように!と伝えました。

この課題、意外に難しくて、
書くことに一生懸命になってくると、名前で書くことを忘れてしまって、
「ぼく」とか「わたし」とかになってしまいます。
動きも主観的な言葉で表すものが増えます。
慣れた子でも、ついそうなってしまうのです。
「ぼく・わたし」を主語におくことが、あまりにも当たり前になっているので、
そうでない書き方、となると難しくなるようです。
(だから、やるのですが!)


その中で、小4から中2の今まで、ずっと来てくれている人の作品が、
すごく完成度の高いものになっていて驚きました。
あれこれと手当たり次第に、いろんなジャンルの本を読んでいるのでしょうか、
ずいぶんと文の作り方がしっかりしてきて、
しかもその中に、わざと置かれた対の表現や隠喩的表現があるのがわかって、
いやはや、いつの間にこの人は
こういう遊びができるようになったのだろう? と舌を巻きました。

おもしろかったので、本人に許可をもらって原文のまま、このブログに載せます。
当然ですが、無断転載や引用はお控えくださいね。

**********************

『海の時間』
中2男子 R

白いつめと、ピンクの肉の間が赤い。その赤の中には、白や茶色や色々な色の小さな砂がはさまっている。砂浜で、手で穴をほったからだ。晴れでもないのに、水も冷たいのに、どうして穴をほったのか、自分でも分からない。いつも、海に来ると、上着をぬいで、ズボンのすそをまくって、ただ、穴をほるのである。遠くの人から見ると、おかしな人に見えるだろう。兄と妹はそれぞれ穴をほっていて、母は、海岸のはしで何をしているのかも分からない。潮が満ちてきたら、自分のほった穴が波によって、どんどんうめられていくのをただながめる。一波ごとに、どんどん穴がなだらかになって行く。そして、穴がなくなる。それをながめる。どっちが最後までのこったかと、二人で言い合う。雲が流れていく。青空が見えたりかくれたり。漁船が行ったり来たり。
母が二人を呼びに来る。三人で、海岸のはしからはしまで歩く。同じくらいの大きさの足あとが三列、続いていく。
海岸のはしには、潮だまりがある。大きいのは、直径が一メートルくらいあるが、小さいのは、岩の上にあって、直径5センチくらい。その、小さな潮だまりの中に、1つずつイソギンチャクがある。まわりには、アオサが一面生えていて、カニやヤドカリもいた。小さな潮だまりの中はまるで指のつめの間に入った砂のように、色とりどりのものがいっぱい入っていた。空が、色づいてくる。カラスが鳴いている。


**************************

うーん。びっくりするな。私には書けない。
以前から、この手の課題には光るものを見せてくれていた人でしたが、
独特な世界を創り出す力をつけてきたようです。
別のをまた書いてくれるかしら。
・・・書いて欲しいなあ。楽しみでならない。





先週の輝く一作 [光る一文]

先週、あるクラスで「どんな世界を作りたいか」をテーマに作文を書いた。
費用だとか今ある国や制度だとかを一切度外視して、
どんなふうな世界だったら、
自分はワクワクとし、動き、新しいものを作り出したくなるか、と
尋ねてみた。

少し先の、自分が目指したい未来。
「今、こうだから仕方ない」なんて諦めを口にしないで、
どんな社会に、どんな人間に育てたいか、だけを考えてみる。

書き方論じ方は自由、
絵で描こうが文章にしようが好きにしてと、
テーマが大きいだけに、それぞれの今あるものが出ればいいと言って、書いてもらった。

小5からずっと来ている中3男子、S君。
入室当初から、切り口や定義づけに見るべきものを持つ人だったが、
今回のものには・・・、
口数の少ない彼の内部で、
何かが育まれ磨かれ続けていたのだと
感じずにはいられなかった。

注釈は必要ないと思う、
ぜひご一読を。

___________________

類人

人間がもっている本能は、今、自分で考えると、生存本能だと思う。生存本能があるのに、自殺がおこるのはおかしいと考えるかもしれない。他人から見ればただの自殺、でも自殺者からすれば、生のための死だと考える。自分が生きていられないというのは、自分が今死んでいる状態をあらわすような感じもする。つまり人間は、生物的な生存ではなく、人間的生存本能をもっている。その人間的生存本能は、一般の生物の生存本能とは少し異なる。人間の生存本能には、感情が関係してくる。自殺のニュースを見ると、自殺の理由で、学校のいじめや、職場のトラブルなどでの、負の感情が主な要因である。反対に、僕達が生きる理由として、将来にイイ事、幸せなでき事などの、正の感情があると思う。
実際には、正や負の感情になるためのキッカケや、ものなどは、人それぞれであり、共存なんてできるわけがない。例えば、AさんとBさんで、Aさんは人を殺して正の感情をえて、人と関わることで負の感情をいだくとする。またBさんは、人と関わることで正の感情、人を殺すことなどが負の感情になるとすると、対立が生じるのは目に見える。物の見方の尺度が違えば対立が生じるに決まっている。人を殺したら悪いって誰が決めた。Aさんにとってこの世界は、敵地みたいなものだ。
人間はみな、人間的生存本能をもって、そのために正負の感情がある。でも、この世界は自由があるがために、ものさしがバラバラだ。例えば数学で、自分だけのものさしで長さをはかったら、本当の長さとは違う。じゃあ本当の長さって何だ。それは世界が勝手に決めた定規ではかったものだ。この定規は、人類みなに共通していると考えていると言ってもよい。しかし、人類のものさしはバラバラである。
このバラバラなものさしが世界をゆがませている。これらのものさしの平均をとっても何の意味もない。中央値をとってもだ。このゆがみは、ものさしを統一するしかなおせない。ものさしの統一は、洗脳と言っても良い。
人間を洗脳すればよい。人間を人間にして、人間のかたまりにすればよい。しかし、それでは個性というものがなくなる。個性がよさ、確かにそう思う。個性、不平等だからこそ、この世界は変わりつづける。さっきいったゆがみがこの世界を不安定する。世界が安定した場合、シーソーがつり合ったように、何もおこらない。不平等こそが、優越こそが、正負の感情を生み、人間をつくりだした。不平等でなければ、死の中の生である。何もうまれない。だが、そのかわりに、シーソーがつり合い、ひたすら同じ時を同じことですごすことができる。
人間が人間だという確証などないし、何をもって人間と言えるかもわからない。矛盾ばかりでしかない。人間が人間であるためには、人間が人間であることもすてないといけない。


*全部はもちろん、一部であろうと、上記文章の複製を禁じます。

先週の光る一文 / 羅生門読解 [光る一文]

羅生門読解。

「今まで、はだかであつい砂ばくを歩いてきた人に、服をわたすのといっしょだ。使い方もわからないのにたった1日でされるわけがない。使えるわけがない。(中略) 今の私達、そして日本は、戦争に関する憲法を変えようとしている。じえいたいがじゅうをもつことができるようになるのだ。それは、その国の人と同じように、急にじゅうを持たされたら、かっこうだけはできるだろうけど、実際に人をうつことがゆるされていても、うてないと思う。手がふるえてきてしまうと思う」(小学生女子)

使うことが許されても、使えない。
「今まで私達が歩んできたのは、戦後というほこりをもつことのできる大きな道」だから、いくら許されても、これまでの歩みが、自分自身にそれを行うことを許さないだろうと彼女は言う。
これまでの道に反する大きな力を、私たちは制御できるだろうか。使い方もわからない大きな力を。

「雨」 光る一文 [光る一文]

雨から始まった10月。
今日はせっかく雨が降ったので、雨をつかまえる課題をしました。
今日の雨の姿を細かく、うんと近寄って描きます。

今日が2度目の参加の女の子。 
ちゃんと自分の目で見た雨をことばにしました。

「とうめいのかさでもようは、ミニーちゃんのかさでした。リナちゃんは、まっすぐかさをもっていました。かさのうえには、雨がおちてくるのもいました。かさのうえでじっとしていたのもいました。」

かさのうえでじっとしている雨。
いいですね。滑り落ちないようにじっとしてるんだ。
小さなちいさな雨のしずく、
そっとそのままにしておきたくなります。


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