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何が、どのようで、なぜなのか。そして…どうすれば? [子どもの言葉を変える魔法]

作文指導に限らず、指導の際のポイントに
「何が・どのようで・なぜなのか」を考えるよう促す、ろいうものがある。
国語の長文読解問題を解くときにも、
問いの文に「何を・どのように」答えよと指示があったかをつかむよう言うし、
今月やっている描写においても、
「何が・どのようであるか」を描いていくことを促している。
また、意見文であれば、
「なぜそう感じるのか、何がどのようだからなのか、なぜそうだと言えるのか」
と何度も自問するようにと伝える。

whatとhowとwhy。
「考える」際の欠かせない問いだが、
小論文において一番弱くなりがちなのが、最後にもってくるべきhowである。

何が・どのような状況なのか、は知識があれば書ける。
なぜなのか、もテレビの解説で言われているようなことをもとにすれば、
まぁそれらしいことが書ける。
しかし、「だからどうするか」となると難しい。
「政府が対策を練るべきだ」とか「配慮していってほしい」とか、
どこかの誰かにゲタを預けるようなものになることがよくある。
それでは結論としては弱い。
結局他人事のようだからである。
自分のこととして考えたという印象は薄くなる。

だからどうするか、と言われて
「ぼくがなんとかする!」「ぼくが世界を変える!」と勇ましく言ってみたとしても
やはり、どうやって?はついてくる。

いきなり世界を自分一人で変えられないけれど、
それでも「自分が」「今日から」できることはないかと考えてみる。
解決策を人に預けない。
自分が今から、明日から、こう「する」ことを探す。
もちろんそれには、頑張ります、という言葉では足りない。
何を、どう、頑張るのか、具体的な一歩を示す。
志望動機でも同じ。
この大学で何をしたいのか、
絵空事ではなく具体的な「何を・どのように・どれだけ」やるかと考えてみる。
マニフェストみたいだが、そうすると「したいこと」がはっきりとする。


作文指導において、
なぜなのか、を考えるように促してきたが
「どうすれば」についても考えを巡らせるようにと働きかける。
「どうすれば」皆が当たり前のように「whatとhowとwhy」を使いこなしていけるかと
いつも考えている。

言葉を促す [子どもの言葉を変える魔法]

昨日、子どもが言葉を出しあぐねているときに
幾つか例を出してみる、ということを書いた。
この場合には、この子はたぶんこう感じているだろうな、という言葉は言わず、
わざとはずして言うことにしている。

似ているけどちょっと違うもの、
かなり外れているもの、
ついでに「はあ?そんなわけないでしょ」という馬鹿げたものも言う。
周囲も本人も笑って「それはないでしょ」と声をあげたくなるくらい馬鹿げているもの。
そういうアホなことを言うのが私は結構好きだ。
ブログでは真面目路線だけれども
講義では馬鹿になりきる。
もともと馬鹿の部分を持っているから、簡単だ。
フリなんかしなくてもそのままで行ける。

それはさておき、ともかくいくつか例を挙げ、
「てなかんじでね、いろいろ思いつくんだけど
あなたはどう感じているのかなぁって。
私の感じ方とあなたの感じ方は同じとは限らないよね。
似てても、ちょっと違うかもしれないよね。
きっとまるきり同じではないだろうから、
あなたの感じてることを言葉にしてくれるといいなぁと思うの。
だって違う人なんだもの、
違うふうに感じるかもしれないから、それを知りたいんだ」
と言う。

すると、子どもは、
勇気を出して何かを言ってくれる。(おバカなことで笑った後だから割と楽)
私が言ったものとまるきり同じ場合もあるし、
ちょっと違う時もある。
全然違うことを言ってくれる時もある。
私はその言葉をとても嬉しく聞く。
「ああ、そうなんだ、そう思ってるんだね」と
その子の言ってくれたことを繰り返して言う。

少し外して言ったり、
予測とは全然違うことを言ったりするのは、
「ちょっと違う」という気持ちを喚起するため。
違う、だから違うと言いたい。
相手に違うと伝えてみたい。
そういう気持ちを少し持ってもらうためだ。

相手に何かを伝えてみたい。
その気持ちがなければ言葉や表現なんて始まらない。

子どもの言葉の力を強くしたいと思うなら、
「わかりすぎない」ことが一つのポイントだ。
子どもが何も言わないうちに、
先回りしたり察してあげたり
代弁してあげたりするのは、
子どもが言葉を発していく力を育てない。
わかりすぎなくていい。
わかっていても、知らないふりをしてもいい。
何か言ってくれたら、
「知ってたよ」と言うより、
「へええ、そうか、わかった、言ってくれてありがとう」
と返したほうがいい。

だから、私は結構待つ。
ずっと待ち続けていると、本人にとってプレッシャーになる場合は、
他の人にふりつつ、やはりまだ待つ。
その子が言うであろう言葉の種類はなんとなく想像しつつも、
こちらで答えは用意しない。
それに実際、子どもの口から出てくる声の響きに、はっとすることが多い。
新鮮なその声を受け止めつつ、
わずかなその言葉を
これ以上ないくらいに大切に吟味して
その人が言わなかったことにまで想像を巡らして、
「もっと知りたいよ」と続きを促す。

言葉は、わかりあえすぎている関係の中では育たない。
ちょっとした違いを持っている人たちの中で
育っていくものだ。
だから、他者と出会うっていうのは、欠かせないことなんだろうと思う。


子どもの言葉の変遷 [子どもの言葉を変える魔法]

子どもの言葉について最近書いているのは、
少し気になることがあるからだ。

子ども相手の仕事を始めて30年近く。
最初の職場はかなり特殊な子どもが集まるところだったので、
世間一般的にそうだったかはわからないが、
子どもたちは、丁寧に言葉を選んでいるという感触があった、
自分の感覚とは違うものを安易に書きつけることはできず、
文がめっちゃくちゃであっても、
テーマを全身で感じて描いていく、という印象があった。

それから10年。
子どもたちは「即座に反応する」ことを良しとしていたように思う。
「すぐに」鋭いことを口にすることがよいこと、とばかりに返してくる、
テニスでいえば、ボレーばかりで返す感じ。
深く自分のコートにボールを引きつけて打ち返す、といったことが
なかなか難しかった。
しかし、彼らには口にしたいこと、批判・反論したいことが
たくさんあって、
とにかくよくしゃべった。
口でも、紙の上でも。
はねとんでいる感じがあった。

次に強く感じるようになったのは、
「得か損か」で判断する傾向。
得ならやる、損ならやらない。
考えや態度を二極化していく傾向が見られた。
「得・損」「正しい・間違っている」「よい・悪い」「必要・不必要」
が二極化の代表だった。
物事の本質を見極めていくことより、大別していくことが
考えること、書くことだと思っている節があった。
彼らには集団の中での立ち位置を常に意識しているところがあって、
誰がどんな役割をしているかをよく観察していた。
その中で、自分がどの位置にいることが自分にも集団にも利となるのか、
捉えて動いているようだった。
したたかさがあったと思う。

次となると、発語が減り始める。
よく笑う。よくうなずく。
場と時間を楽しんでいる。
しかし書くとなると、話を消化しきれていない感があった。
物事を楽しむ才能を持っている反面、
物事の深いところにまで光を届けていけないようだった。
テレビのバラエティー番組を見ているかのように講義を楽しむ。
しかし、突然自分が「発し手」となることを求められると、
パッと何かを口にすることができない。
聞きながら考える、ということはしていなくて
聞いている間は楽しんでいる、考えるのは別、というふうだ。
紙に向かってから考えることが始まるので、深まりを作れない。
もどかしくはあったが、じっとじっと待ち続けていくと、
この頃の人達は数年かけて自分の「考える」力を育てていったように思う。
一度深めることを身につけたら、
それをずっと持ち続けていくだろうという強さが感じられた。

そして、今。
発語はますます減ってきたように思う。
にこにこ笑って、じっとそこに座っている。
が、自分が発言する機会を得ても、
何も言えない。
言いたいことはかすかにあるのだろう、
口元が動いて体も揺れる。
しかし、声にならない。
紙に向かっても、なかなか言葉に置き換えられない。
置き換えても、その人の本当の感覚からはずいぶんと減った形で記される。
ひょっとしたら、感じる力そのものも、鈍くなっているかもしれない。
目・耳・鼻・手・口、体で受け取る情報が意味を持たなくなり、
観察する力が低下している。
感じていることそのものへの注意が減っているので
言葉に置き換えることも難しい。
言葉の強弱に対する感性も、なかなか育っていかない。

一方で、雄弁な子達は雄弁になっていく。
街頭インタビューで感想を求められて答える子どもたちの言葉を聞くと、
うまくまとめるもんだな、うまく「それらしいこと」を言うな、
まるで大人みたいだ、と思うことが増えた。
「たのしかった」「えー、ふつー」「チョーやばい」などにはならない。
立派なコメントをマスコミが選び始めたせいかもしれないが、
それはともかく、作文においても描写課題はうまくなった。
うますぎて、どこかのライトノベルから引っ張ってきたのではないかと思うくらいだ。
うまい。でも、みんなどこか似ている。
生活感がない。
その土地ならではの気配がない。
日本全体がそうなっている、のかもしれないが
どの風景も同じに見えて、
土の描写も風の描写も、強弱のつけ方も、どこかみんな似ている。
作り物めいている。
そこに肉体や息吹を感じることができない。


さて、と思う。
この流れはどこへ向かうのだろう。
最初の頃に見ていた子ども達はすでに子を育てる世代となっている。
彼らの言葉や姿勢が、次の世代を育てていく。
今の子どもたちが欠点だらけだとは思わない。
短所があるということは、その分長所を育てていっている、ということだ。
たぶんそれは、今のこの世界を生き抜く力に通じていくものだ。
その力を見出し、伸ばしていくと同時に、
やはり「見せかけの感覚」ではなく、
本当の五感への注意力、
そして人から提示されなくても、本質を見抜こうとする視点と姿勢、
それらを育てていきたいと思う。

言葉を発しにくい人には、いくつかの例をこちらから言ってみせることがある。
その人の感覚に近いものだけでなく、真逆のもの、少しずれているもの、
いくつか例を挙げてみる。
そうすると、「こういうタイプの言葉を使えばいいのか」とわかって
つまりは手がかりをつかんで、
自分の感覚に即した言葉を選んで口にしてくれることが多い。いや、多かった。
今はどうかと言えば、
「選ぶ」だけだ。
選択肢が自分の感覚とは違うと感じたとしても、
提示された中から、選んでそのままを使う。
触発をねらった働きかけは、触発とはならず
言葉や自分の感覚を吟味する機会を作ることにはなっていない、と感じる。


ここが今の課題である。
今までずっと、課題としてきたことは難問だったが
今回もまた、難問だ。
どうすべきか。何ができるか。
自分は、地方の小さな個人教室の主宰者であって、
無名で、日本の教育を左右できるような力など持たない者であるけれども、
そんなこと子どもたちには関係ない。
その子のそばにいるのは、有名なセンセイではなくて私である。
だったら私が、一流たろうとする意識を持って
一流と同じ視点を持って、
一流にはできないことをしようとしなければならないと思う。

そういう矜持を持った人はたぶん世界にたくさんいる。
私もその中の一人でありたいのだ。
だから毎日、何かを考え続けている。


読み手の修行 [子どもの言葉を変える魔法]

こどものことばを磨くのは周囲だと昨日書いたが
もちろん、自ら磨き始める頃もある。
他者が自分をどう見るかを意識する頃から始まる。

その前の段階では、
読んだ人(先生や家族)がほめてくれるかどうかが基準。
ほめてくれればOKだし、何か注意されたらアウト。
だからこの段階の「ほめる」に一工夫すると、子どもは伸びる。
「正しいことを書いた」ことをほめると、それしかしなくなるが
多少変な言葉遣いでも、感覚を用いて描いたところや
その時の自分勢いそのままに、
周囲を見て動きを書いていったところなどをほめると、
「そうか、こういうのがステキなんだ!」と思って
次もそのタイプの表現を入れようとする。

つまり、この時期の「ほめる」は表現の基準作り。
文字が正しい、道徳的に正しいことを書いた時だけほめると
それしか書かなくなる。
周囲の反応がまずは第一段階の基準だ。


他者の目線を気にするようになってからは
子ども自身が作文の基準を作るようになる。
女の子なら逸脱を避けるようになる。
文や筋道がこわれないよう、
よく耳にする倫理観でものを書こうとする。
男子は、まずは見た目。辞書で漢字を調べて書くようになる。
用いる言葉も熟語が増える。抽象語が特に増える。
それはいいのだが、概念的なことに終始して、
「どこかのだれか」の話になってしまいやすい。
文章に自分の真の感覚は あまり用いなくなる。意図的に。

この時期の人たちでも、ほめられることはやはり嬉しい(はずだ)が、
「すごいねー」ではほめたことにならない。
この時期の人には、
「あなたのこの部分が、こういう効果を上げていて、
それが読み手にはこんなふうに響く、だからいい」と
どこがどのように良いのかを伝えるようにしたほうがいい。
親の場合なら、あれこれ 言っても照れて聞かないかもしれないので
具体的にほめるときがあったり、
ただじっと、
何度もなんどもその作文を愛でるように黙読する姿を(わざと)見せたりすると
いいかもしれない。
子どもは案外横目でそれを見ている。
分量の少なさや字の読みにくさや「何言ってるのかわからない」文章だと
非難するかのように言ってしまうのは、…あまりよい効果を上げない。


よい読み手がよい書き手を育てる。
書く、というのは、書き手の修行のようだが
受け手、つまり読み手の修行でもある。
どう受け取り、どう返すか。
読み手が書き手を力を測っているように
書き手も読み手の力量を、文字の隙間から窺っている。


あせらないこと。信じて待って! [子どもの言葉を変える魔法]

ブログでは、教室の生徒たちの「よい部分」をできるだけ紹介するようにしています。
読んでくださるのは、在籍生の保護者の方が多いでしょうから、
授業中の彼らの活躍をお伝えしたい・・・、というのと、
「よくない」ことが書かれていると、「これはひょっとしたらうちの子かしら?」と
悲しく思っていただきたくない、というのが理由です。

ですがもちろん、教室での作文が
「どの子も・いつも・めん玉が飛び出るほど・すごい!!!」作文を書く・・・
・・・なんてことは、ありません!!!

前回紹介した描写の課題でも、
「人の姿だけ!書こう」と何度も言っても
いきさつを6行も書いてしまって、結局「人」を見えるように描けなかったり、
一つのことを描ききる前に、どんどん別のことへと流れていってしまったり、
というような作文はありました。

ですが、「う~ん、こちらの意図が届かなかったか!」と思う作文になっても
「だからこの人はまだまだだ」「ここがダメだ」「力がない」とは思いません。
いつも、「あせるな、あせるな」と自分を戒めます。

その人が真に意図を理解できるように
私の働きかけをもっと工夫するべきだということは、しっかり肝に銘じますが
多少ずれたものに仕上がったとしても、
多少読みにくさが見える作文だったとしても、
それは、今のその人が、そういう言葉で返してくる段階にある、ということでしかありません。
その子の心の奥底では、確かに何かが育っているのですが
それがまだ、表面に出てきていない状態だ、というだけのことです。
だからあせって、「はやくここを直さなければ!」とは思わないようにしています。
「直す」「矯正する」という意識が私にあったら、
生徒はいつか、「表現」ではなく、私の中にある「正解」を見つけようとし始めるでしょう。
それでは彼らが持っている「よい芽」を育てるのではなく、
つぶしてしまうことになると思っています。

たぶん、保護者の方の中には、
「なんでこんなまちがいだらけなの?」
「先生の言っていることを理解しているように思えないなぁ」
「この子ったら、まだこんなふうにしかものごとを見られないのかしら」
という思いを抱いていらっしゃるかたもおいでだと思います。

ご自分のお子さんなのですから、はがゆい思いを抱かれても当然です。

ですが、教室の子どもたちで、
なまけて書いている子は、一人もいません。
たまたまその日はうまくはまらなくて、
言葉が凡庸になったり、足りなかったりすることがあったとしても
それは決して、怠けたり逃げたりしたからそうなったというものではないのです。

書くということは、重労働です。
いつでも、正解のない道を明かりもなしに探っていくようなものです。
生徒たちは、その「なかなかにむずかしいこと」にいつも挑んでいます。
まだまだ成長過程の只中にある人たちなのですから、
どんどん試していくことこそが大事。
「あれ?なんだこれ?」というものも生み出したってかまわない、と思います。

あせらない、あせらない。
ほんの少しだけど、確実に芽は育っているのです。
入室当初はちっとも鉛筆を動かせなかった人が
4か月後、物も言わずにただ紙に向かって、言葉を書き連ねている、
いつも同じような視点の意見文が半年近く続いた人が
ある日、ぽん!と、テイストの違う作品を書き上げる、
そんなこと、教室では何度もあります。
だから、あせってはいけないのです。
停滞しているように見えるときこそ、
焦らず変化を待ち続けないといけないのです。

待つのは大変。
すごくわかります。
でもどうか、「よくないところ」にフォーカスしないで
「小さな変化」に目を留めて
ああ、一歩進んだのだなぁと思っていただけると、
きっとお子さんにとっては何よりのエールになります。


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