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言語指導は甘くない! [教室]

作文が苦手だ、という子どもはたくさんいます。
にもかかわらず、作文教室は地域にほとんどありません。
学校の成績(点数)に直結しないから、というのが理由・・・ではありませんね。
勉強に関係のないはずのバレエやピアノの教室は、たくさんありますから。

作文教室がない理由。
簡単です。
手間がかかるからです。
手間がかかる上に、効果が出にくい。わかりにくい。だからです。

数学や英語の教材は多く開発されています。
「生徒の理解を促す教授法」も多く生み出されています。
しかし、作文指導の場合は、教材がそれほど多くない。
指導法も確立されたものがない。
指導しようとしたら、作らねばならない。それは手間がかかります。

そもそも作文は、学生アルバイトではとても指導できるものではありません。
彼らもまだ、多様なものの見方を身につけている最中ですし
学生はつい、「正しい・間違っている」の観点で答案を見てしまうので
(当然ですね、自分自身がそうされているのですから)
「この作文にまちがいはないか?」で考えるしかなくなるでしょう。

それは、言語指導とはいえません。


以前聞いた学習塾の話です。
作文コース、1回50分・月4回・9000円。
どんな指導をするのかと思ったら、
添削指導を請け負うある団体から課題をもらい、添削に出し、
返ってきたものを子どもに渡して、言葉で少しアドバイスする、という流れでした。

ふーん、生徒の作文を自分で読み込まずに、他人に任すんだ、
なんて安直なんだろう、経営的には正しい?のかもしれないけれど、
それで指導ってできるのかしら?
何を指導しているのかしら? てにをは? ・・・と憤慨した覚えがあります。

確かに、書く回数が増えれば、ある程度は書けるようになります。
慣れれば、誰でも量は増えます。
作文の型に沿って書き、よいとコメントされればその書き方を踏襲して書く。
それで一応マルはもらえます。

ですが、そこには「表現」はありません。
子どもは無理をしません。むしろ無理すると文章が崩れますから
無難な素材で、無難な論旨で、形を整えて書きます。
その方が評価されることも多いでしょうしね。

ですが、それは表現ではありません。
言葉は心の成長と共に着替えていくものです。
年齢を重ね、ものの見方が広く深くなっていけば
それに見合う、広くて深い言葉を選んでいくべきだと思います。

「これならマル」を踏襲していく書き方は
たとえ、その人の精神が成長していたとしても、
「以前のその人」サイズの言葉を用いて書きますから、
足りないのです。
甘くなるのです。
言葉にも、考え方にも、「今のその人」が反映されないのです。


私の教室のやり方は残念ながら、手間がかかります。
テーマについて私自身があれこれと語り、
子どもたちの言葉に耳をそばだて、取り上げ、認めて、
「これをこの人に言いたい!」と思う空間をまず作ります。

作文を書いている間も、子どもたちが「予定調和」で文章を推し進めないよう
時々言葉をかけ、はっとさせ、今までしたことがない書き方を試すきっかけを作ります。

書いてもらった作文は、視点を見ます。
考えの飛躍を見つけます。
挑んだ工夫を取り上げ、評価し、次の一歩を踏み出せるよう勇気づけます。
「間違いさがし」はしません。
「間違えないように書く」のが表現ではないからです。
「伝わるように最善を尽くす」のが表現だと思うからです。

授業ではいつも「私」が試されます。
「私」をさらけ出して導入をしないと、子どもたちは「書きたい」と思いません。
それもしないで、ただプリント渡して書かせて、
添削は他人に任せて、自分は労せず、机だけを提供して授業料を取る、
そんなやり方、ああもう、同列で語ってほしくありません。

今回はつい、熱く語ってしまいましたが、
なんだか、あちこちの学習塾でやっている「作文指導」が不安でならないのです。
あれは本当に、作文指導なのでしょうか。
文を指導するということは、その人のものの見方を育てること抜きにはできないのに
なんだかそれはあいまいにして、はっきりした根拠も示さずに、
これはよし、これはだめ、と言っているだけの気がするのです。

そんなの、作文嫌いがもっと増えてしまうじゃないですか!
ああ、そんなのは嫌だ。おかしい。
自分を伝えたいという気持ちは、誰にだってあるのに。


今日は、小2から高校卒業まで教室に来てくれていた人の最後の授業でした。
大学に通うため、彼女は岐阜を出ます。
彼女は最後に、私に手紙をくれました。

作文教室は私の原点だ、とありました。
作文教室によって私は構成された、と書いてくれました。
教室に行くたびに新しい気づきがあって、考えさせられた、とも・・・。

彼女は私のもがきを、一番近くで見ていた人です。
うまくいくことばかりではなかった11年をともに教室で過ごしました。
私は彼女を見ていましたが、彼女も私を見ていました。
彼女のような生徒を持てたこと、私は本当に幸せだと思います。

高校生になっても続けてくれた人は他にもいます。
彼らにも深く感謝です。
受験のためではない、自分の何かのために来てくれていたのだと感じています。

手間がかかったってなんだって、
子どもたちと表現という底なし沼に挑むことができる、
それが作文指導の醍醐味です。

それを、自分で作文読まずに、コメントを他に任す?
・・・、だめだ、前に戻っちゃう。
もうやめます。


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