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考える実験 [課題―テーマ作文]

9月の授業では「考える実験をしてみよう」という言葉を何度か口にしました。
これも、宮川先生がいつかの講義でおっしゃっていたことです。
教室生の中に、自分の考えを書くことに忠実であろうとする人が何人かいて、
それはとても大切なことではあるのですが
「自分にとって正しいこと」「世間で正しいと言われていること」ばかりを
中心に書いていく傾向が強いのが気になっていました。

年齢的には、まだまだ発展途上であっていいのです。
自分の考え以外のものの見方は、世界には幾通りもあります。
「これしかない!」と今、決めてしまわないで
立場を変えて見てみること、
違う側面を見ようとしてみること、
大いに挑んで迷って検討して、そうかと気づいてまた知ろうとする、
そういう試行錯誤を恐れずに続けてほしいと願っています。

「考える実験」の課題として、9月の最終週に「定義づけのレッスン」なるものを行いました。
その前の週に、
「抽象的なものは具体的なものに置き換え、具体は抽象に置き換える」
ことを意識して臨むよう働きかけていたのですが、
もうあと数回、取り組んでみたほうがいいように感じましたので、
定義づけのみに絞って授業を行うことにしました。

抽象的なもの、たとえば「夢」を説明しようとすると
「人を成長させる、行動させる、絶望させる、
諦めずに挑むもの、願い続けるもの、無くてはならない大切なもの・・・」
などの言葉が並びます。
確かに夢にはそのような側面がありますが、
成長も絶望も願いも大切も、抽象的なものなので
夢を抱いている「その人の姿」は見えてきません。
つまり、「夢」の姿を受け手が心に思い描くことができないことになり、
書き手の思いを十分に伝える言葉とはなっていない、ということになります。

そこで、抽象的な「夢」の本質をよりイメージさせるために
夢を具体物に置き換えてみます。
たとえば、傘。メトロノーム。スポイト。定期券。靴。
夢、という言葉からすぐに連想しないような具体物にあえて置き換えるのです。
考える実験、ですからね。

そして、「夢は傘だ。」とでも言い切って、
夢という傘を開くと・・・と続けて考えていくのです。
傘は雨よけ。体を守ります。となると、夢という傘で私たちは何を守るでしょう?
夢は何をはじいているのでしょう?(はじいてしまっていいのか、とも考える、)
また、傘は持ち運びできるもの。
夢という傘を手に、私たちは歩むことができます。(傘を持って歩むと・・・?と考える、)
そして嵐のときは、私たちは夢という傘を武器に自分を守ろうとします。
嵐=世界、世間、うわさ、などと置き換えて(具体を抽象に置き換えている)
その中で生きる時に夢という傘がどんな役目をしているかと考え言葉にしてみます。
そんなふうに、夢とともにある人の姿を示す言葉は、
「大切」という言葉以上に、夢の持つ一つの面を描き出すことができるようになります。

私が例として挙げたのは「靴」でした。
「夢は私の靴だ。夢という靴をはいているから、私はここよりうんと遠い、今の私が知らないところまで行くことができる。夢という靴が、私に前進する力をくれるのだ」
みたいなことを言ったように記憶しています。

生徒たちにも、やってもらいました。
抽象的な語を先に言ってしまうと、それにあわせて具体物を選んでしまうので、
先に具体物を各自一つずつ挙げてもらい、
後でテーマとなる抽象語を提示しました。

中学生のクラスで取り組むことになったのは、
「水筒ー夢」「雑巾ー平和」でした。
これを「夢は~だ」「平和は~だ」と定義づける形にします。
「夢は小さな水筒の中に詰め込まれている」
などと発展させるのも、もちろん可能です。
厳しいルールはありません。ポイントは一つ。抽象的な語をすぐに使わないこと、です。

どんな具体物を皆が出してくるかわからなかったので、うまくいくかとドキドキしましたが
なかなかよいものを考えてくれました。
水筒は、中の水を詰め替え可能なので、夢を詰替えながら生きていくことを表現した人、
夢の水を飲み飽きたら・・・と仮定して、夢に飽く場合を見せた人、
同じ言葉で同じように言う人はいませんでした。
その違いを皆で楽しみました。

「平和」の方は、平和という言葉が戦争と対になっているせいか、
美しいものが似合うように思えますが、
その逆の、汚いボロボロの雑巾に置き換えなければならなくなったことで
「平和」の成し遂げにくさと言葉の空虚さを表現しやすくなったようでした。
苦戦はしていましたが、「いつもなら絶対にしないであろう思考」をすることになったので
よい刺激になったのでは、と思っています。

書くことは考えること。
しかし、考えることがいつも同じの、通り一遍のものでは
「考える力」を十分に使ったようには思えません。
小、中、高校生、まだまだ試していい時期です。
「こう考えたら、どうなるかな?」と
自分の本心はさておいて、違う視座から物を見る訓練をしてみてほしいのです。
そうすることで、思考の幅と視野とが広がるはずです。
「こう思う」と書くことが作文ではないのです。
「こう思う」と述べる前の、どう見るか、何が考えられるか、どう言葉にするかと
思いを巡らせる時間にこそ、「作文」の本質があります。

うまく書くための指導ではなくて
考える力を養うための指導でありたいといつも願っています。


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