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先週の輝く一作 [光る一文]

先週、あるクラスで「どんな世界を作りたいか」をテーマに作文を書いた。
費用だとか今ある国や制度だとかを一切度外視して、
どんなふうな世界だったら、
自分はワクワクとし、動き、新しいものを作り出したくなるか、と
尋ねてみた。

少し先の、自分が目指したい未来。
「今、こうだから仕方ない」なんて諦めを口にしないで、
どんな社会に、どんな人間に育てたいか、だけを考えてみる。

書き方論じ方は自由、
絵で描こうが文章にしようが好きにしてと、
テーマが大きいだけに、それぞれの今あるものが出ればいいと言って、書いてもらった。

小5からずっと来ている中3男子、S君。
入室当初から、切り口や定義づけに見るべきものを持つ人だったが、
今回のものには・・・、
口数の少ない彼の内部で、
何かが育まれ磨かれ続けていたのだと
感じずにはいられなかった。

注釈は必要ないと思う、
ぜひご一読を。

___________________

類人

人間がもっている本能は、今、自分で考えると、生存本能だと思う。生存本能があるのに、自殺がおこるのはおかしいと考えるかもしれない。他人から見ればただの自殺、でも自殺者からすれば、生のための死だと考える。自分が生きていられないというのは、自分が今死んでいる状態をあらわすような感じもする。つまり人間は、生物的な生存ではなく、人間的生存本能をもっている。その人間的生存本能は、一般の生物の生存本能とは少し異なる。人間の生存本能には、感情が関係してくる。自殺のニュースを見ると、自殺の理由で、学校のいじめや、職場のトラブルなどでの、負の感情が主な要因である。反対に、僕達が生きる理由として、将来にイイ事、幸せなでき事などの、正の感情があると思う。
実際には、正や負の感情になるためのキッカケや、ものなどは、人それぞれであり、共存なんてできるわけがない。例えば、AさんとBさんで、Aさんは人を殺して正の感情をえて、人と関わることで負の感情をいだくとする。またBさんは、人と関わることで正の感情、人を殺すことなどが負の感情になるとすると、対立が生じるのは目に見える。物の見方の尺度が違えば対立が生じるに決まっている。人を殺したら悪いって誰が決めた。Aさんにとってこの世界は、敵地みたいなものだ。
人間はみな、人間的生存本能をもって、そのために正負の感情がある。でも、この世界は自由があるがために、ものさしがバラバラだ。例えば数学で、自分だけのものさしで長さをはかったら、本当の長さとは違う。じゃあ本当の長さって何だ。それは世界が勝手に決めた定規ではかったものだ。この定規は、人類みなに共通していると考えていると言ってもよい。しかし、人類のものさしはバラバラである。
このバラバラなものさしが世界をゆがませている。これらのものさしの平均をとっても何の意味もない。中央値をとってもだ。このゆがみは、ものさしを統一するしかなおせない。ものさしの統一は、洗脳と言っても良い。
人間を洗脳すればよい。人間を人間にして、人間のかたまりにすればよい。しかし、それでは個性というものがなくなる。個性がよさ、確かにそう思う。個性、不平等だからこそ、この世界は変わりつづける。さっきいったゆがみがこの世界を不安定する。世界が安定した場合、シーソーがつり合ったように、何もおこらない。不平等こそが、優越こそが、正負の感情を生み、人間をつくりだした。不平等でなければ、死の中の生である。何もうまれない。だが、そのかわりに、シーソーがつり合い、ひたすら同じ時を同じことですごすことができる。
人間が人間だという確証などないし、何をもって人間と言えるかもわからない。矛盾ばかりでしかない。人間が人間であるためには、人間が人間であることもすてないといけない。


*全部はもちろん、一部であろうと、上記文章の複製を禁じます。

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