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描写力の低下にどう取り組むか [課題―描写]

今週は、先週の俳句でも意識した「描写」に焦点を合わせた課題を実施しています。
自分が見た風景を、あるいは感じた皮膚の感覚を、
読み手がそのまま「見る・感じる」ことができるように書く、というのは
かなり難しいことです。
まず、自分が周囲をよく見て(感じて)いないといけませんし、
「それを他人は全く共有できない」ことを前提として、
「感じさせる・悟らせる」言葉を選んで書かないといけないからです。
この2つのことを意識して文章を書ける人はまれです。
小学生の頃から「生活文」を書く機会が多いのに、
人・時・場の描写にどれだけの言葉を費やさねばならないのか、皆知りません。
求められる機会がないからその感覚を発達させていない、とも言えます。

ですから研究室では、「表現の研究」の一環として、
描写のレッスン課題を多く用意しています。
見た直後に言葉で様子を再現するような「実況中継」課題、
30秒ほど私の動きを観察して文章化する課題、
5分ほど部屋の外に出て、周囲と皆の様子を観察しながら散歩し、部屋に戻って書く課題、
家から研究室までの道を書く課題、
今朝の食事風景を書く課題、
今日の学校の掃除時間(給食時間・休み時間)を書く課題、
学校から家までの道を書く課題
・・・
まあ、いろいろとあります。
長くても30分くらいのことを、
人の様子(服装、しぐさ、表情、声 etc)
時の様子(暑さ寒さ、空の様子、光の角度、周囲のざわめきetc)
場の様子(広さ、配置とその物の様子、壁や床の色と質感、光、風、音 etc)
を見せるように描きます。
机を登場させたら、次に移らず机の大きさや色や傷や触り心地を表す文を
続けて1、2文は書く、
場を移ったら”一時停止”、何も行動を起こさないで
その場の広さや狭さ、暗さと音の響き、におい、吹く風などを表す文を2、3文…。

これらに「わざと」取り組んでもらいます。
「わざと」やろうとしなければ、決して文章には入らない描写だからです。
小・中学生のほとんどは、ものごとを主観で書きます。
自分がどう感じたかが文章のメインで、
心のつぶやきと「つめたい」「たのしい」と一言感想に終始します。
それでいい、と思っているからです。
それではほとんど伝わらないことを知りませんし、
そもそも求められたこともないので、やろうとはしないのです。

だから、「わざと」やって、と求めます。
5分ほど外に出る課題でも、
30秒間私の動きを観察して書く課題でも、
「全部を書ききらなくていい」と先に言っておきます。
時間内に全て書ききるような書き方では今日はだめ、
3枚書いても、「まだドアを開けて階段を降り始めたところ」くらいなのがいい、と言います。
そのくらい「留まって見せつくしていく」ことに挑んでもらいます。

かなり前にも書いた記憶がありますが、
子どもたちの作文から場の様子が消えました。
土のにおいも、生き物の影も、何もない文章が増えています。
毎日通る道なのに、自分のすることは思い出せても、
何が・どのようにあり、変化がみられるのかまで描くことがありません。

子どもたちが自分に容れていくことが減っています。
運動場の様子さえわからない文章も多いのです。
子どもたちが視界に入れていることは、大人が思うよりも狭く少なくなってきています。
本好きな人は描写もうまいですが、
「本当に自分が見た、たった一つしかない運動場」を言葉で置き換えたものではなく、
「どこかで読んだような、よくあるタイプの運動場」の描写になることも、最近増えました。

どうすればいいのか、といつも思います。
見ているようで見ていないのをどうするか、
見たものを言葉に置き換えることを、実際に「できる」ようにするためにはどうするといいのか、
課題は多くあります。
描写が手薄いということは、表現の幅が狭い・観察力が磨かれていない ことの現れでもありますから、
看過できないと私は考えています。

書くことの前に、「見ること・感じること」。
そしてそれを、
自分の言葉が読み手の目となりその他の感覚器官となって
人・時・場を捉えさせているのだ、という意識をもって言葉に置き換えること。
一足飛びに身につくことではありません。
何度も何度も働きかけて、その子が「意識してやれた」ときに、
間髪入れずに「これでいい! こういう効果が出ているよ!」と伝えること、
今のところずっと続けてきた手法を守っていくほかありません。
お互いにシンドイですけど、その人が本当に「選んだ」表現に出合えた時、
その人の持つ変化の可能性の大きさにいつも心打たれます。

もし、このブログをお読みの方の中に、
作文指導に関心をお持ちの人がいらしたら。
ぜひぜひ、描写にはこだわってみてください。
上に挙げた課題もやってみてください。
課題のネタは、いくらでも思いつけます。
それに、私が思いつくことは、他の人も思いつくことです。
ですから、課題自体に「私のものだからマネしないで!」とは思いません。
作文指導は、受け手である指導者が「どのようであるか」が肝心です。
これは恐ろしいことなんですが、言語指導はやはり「人のありよう」で変わります。
研鑽を怠ってはならない、と…今、書いていて、ああ、ほんとに思いました。

私が出会える子どもたちにとって、私はよき「読み手」であるように…という意識は、
絶対に手放さないでいようと思います。

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