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悪口作文への対応・・・どうする? [作文の読み方・返し方]

GWですねー。
去年の今頃は内覧会直前で、バタバタとしていました。
今年は…、目の手術も済んでほっとしています。
ですが、今まで使っていた眼鏡の度が合わなくなってしまって、
相変わらず「よく見えないなー」と言いつつ、すごしています。

さて、前回「作文指導を志す人に何か伝えていきたい」と書きました。
書いたままではなんなので、
この間ちらっと意見を求められたことがあるので、
そのことについて書いてみようと思います。

子どもと作文に取り組んでいると、
たまに「嫌だと思っていること」を滔々と書き並べる作文に出合います。
さて、こういう場合どうするか。
働きかけに正解はありません。
時と場合とによるのは当たり前ですからね、
「~すべき」と一つ方法を示したところで、必ずうまくいくものではありません。
ですから、これから書くことは、
「私(宇野)が心がけていること」の紹介です。
その点をご承知いただき、お読みください。

「ここまでけちょんけちょんに言ってもいいの?」と思うくらい
人や物事のダメなところ、嫌なところを書き連ねた作文を
子どもが出してきた場合。
私が「しないこと」は、まず、
「でも、〇〇さんは~と考えていたかもしれないでしょ」
「~と考えた方がよくない?」
と、ネガティヴなものの見方を「すぐに」ポジティヴな見方に
転換させようとしないこと、です。
大人は、相手のネガティヴさを捨てさせよう、
ポジティヴな見方に気づかせようとすることがあります。
もちろんそれには理由があって、
ネガティヴな考え方や言葉が、
対象となる相手や物事よりも、それを持つその人自身(自分自身)を蝕み、
苦しみが続く(またはもっと大きくなる)ことを経験的に知っているからです。
大切な人に(子どもに)は、そんな思いをしてほしくない。
だから、ネガティヴな見方から早く離れてほしくて、
別の見方を提示したり、
嫌だと言っていることの重要性を説いたりします。

ですが、ここで注意してほしいのは
「作文指導は思想教育ではない」という点です。
「こういう見方が『良い』ものなんだよ」と伝え、
「そうか~」と気づかせることが作文指導の目的ではありません。
少なくとも私は、そう考えています。
だから一足飛びにネガティヴをポジティヴに置き換えるような働きかけはせず、
「この人は何故今、このような言葉で、このようなことを紙に書いたか」
を考えます。
書き手の読解です。
書いた内容を変えさせる働きかけはしません。

例えば、私は何を見る・考えるかというと、
・作文に向かうまでのその人の表情・言動から、どのくらいその気持ちが今のその子を占領しているかを見る
→本当につらい中にあるのか、それとも書くことがないので、昔のことを(心の中では終わっていること)を引っ張り出して、大きく書いているのか、またはもう終わったことなのに、思い出すとまるで今日のことのようにつらく感じるタイプの人なのか 等々
・人との関係において、何を重要視しているのか、その人の正義感や価値観を見る
→単に乱暴な言葉を書き並べているだけか、「ここがおかしい!」とその人なりの理屈があってのものか、本心ではなくノリで大げさに書いているだけ、もしくは誰かの受け売りをそのまま書いているだけか・・・、何度も同じ言葉が繰り返されているとか筋道だっている/いないとかで見ていく。

自分にとって嫌なことを書く子どもは、書きだす前に「書いてもいいか」と
尋ねてくることが多いものです。
「こういうことは書いてはだめ」と言われるからでしょうね。
講座では、「他人に対して(自分に対しても)直接愚弄罵倒する言葉は用いない」としていますが、
嫌だと感じていることを書いてはいけない、とはしていないので
「書いてもいいよ」と答えます。
でも、「私はあなたが嫌だと思うことを嫌とは思わないかもしれないから、
どこがどう嫌なのか、伝えてほしい」と言います。
「そうしてくれたら、あなたが『いや!』と思うことを、私も同じように思えるかもしれないから」

それで、嫌なものが「人」だった場合は、
その人の、どんな表情が、どんな声が、どんな態度が嫌だと感じるのか、
眉のあげ方か、においか、歩き方か、
どんな時にどんな言動をとって、
それをどうして「あなたは」おかしい、と感じるのか、
言語化してみてほしいと伝えます。

嫌という感情に振り回されていたら、これらは書けません。
ちょっと身を離して人や物事を見ることが求められます。
何をどう描いていく人なのかが、最大の着目点です。
「自分にとっての当たり前」を優先させていて、
他者の感じ方を全く加味しようとしていない文章だったとしても、
それは「今のその人がそうだ」ということで、
「これからずっとそれが続く」わけではありませんね。

経験から言えば、
「嫌なこと」を書き続けられる人はいません。
その人自身がまず飽きます。ネタも続きませんしね。
ですから、仕上げた作文1点だけで判断しないことも大切です。
もし同じように悪口を発展なく書き続けていたら、
「読み手の私は飽きた!」と伝えればいいのです。
嫌なことだけでなく、いいことでも同じ。
ほめられた書き方をいつも使おうとする人もいますが、
「ねぇ、こう書けるのはわかった。前に見たしね。
違う(表現の)引き出し使ってみてよ。
あるのに使わないのはもったいないよ。さびついちゃうよ」
と私はよく言います。

子どもの作文は、通過点の一つです。
ああすごいな、と思うものを書いても、
しばらくするとその人の力が以前よりついてきて、
前と同じようでは物足りなくなります。
「これはあまりよいとは思えないな?」と感じる作文も同じ。
今、子どもがそれを出してきたのには理由がありますが、それが全てではないのです。

悪い時ほど、内容についてのダメ出しはせず、
今回そう書かねばならなかったその子の状態について考えます。
文章の中に、その子なりの哲学が感じられれば
「そうか、君はこの点を最も大切に見ているんだね」と返し、
嫌でたまらない相手の言動を細かく描写した部分があれば
「うわー、こんなふうなんだ。よく見てるねえ。
嫌だと気になるものね、だからこんなに細かく観察できちゃうんだな」と感心します。
(するとたいてい、
「嫌だからほとんど見てない! でも、目に入ってきちゃうんだ!」
とかなんとか言います。)
本当に苦しい状態にある場合は、作文を提出するとき、ぽろっと子どもが
「なんかもう本当に嫌なんだ」とつぶやくことがあるので、
そういうときは、作文返却時に、書ききれなかったその人の思いを聴きます。
でも「こう考えたら?」とは言いません。
本人が「でも私は、~と考えるようにしている」と言い始めることも多いですし。
「そうか」とそれも聞きます。
ただ聴くだけのこともあるし、励ましてほしそうな様子だったら
なんとか切り抜けようとしているその人の姿勢にイエス!を言います。
どちらにしても、文章からその人の「つらさ」が伝わったことは、相手に知らせます。

悪いことは書いてはいけない、ではなくて、
何をどう描いていくか、が表現です。
嫌なことを、どんな言葉でどう描くと
相手の共感が得られるかを考えたり、
「どこがどう嫌なのか」を改めて考えてみることで
「自分が絶対に譲れないもの」に気づいたりします。
その機会が「作文」です。

その人が「自分にとって嫌なこと」をどう描き出したかで、
「今のその人」を見ます。
でもそれは「現時点のその人」である、ということだけ。
「未来」は違うものになるはずです。
自ら「大切なもの・すべきこと」を見出していく力をつけてもらいたいなら、
自問すること、描き方を探ることを続けてもえらる場を作る、というのが
作文指導者の「すべきこと」であるかな、と私は思います。


うわーーーー、長くなった!
ごめんなさい、次はもうちょっとうまく書こう。
言いたいことを分割して載せるようにします。


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