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訂正したいこと [作文のチカラ]

先回の文章の中で、自分の気持ちにそぐわないと感じながらも、そのまま書いてしまった言葉があります。
更新してからもどうしても気になって、削除しようかと思ったのですが、その前に「なぜ、どんな風に『そぐわない』と感じるのか」を考えてみました。
気になるというのは、『書くことにかなり困難さを感じている人』のところです。

 

書くのが困難、苦手、と考えているのは誰かというと、本人もしくは家族、そして周囲の人(先生とか)です。このすべての人がそう思っている場合もありますし、本人はそう思っていなくても周囲がそう感じている、ということもあります。

しかし私は、書字が難しいとされる人でも、作文は書けるし、得意になれると思っています。
それはたぶん、「作文」の捉え方の違いによるものだと思います。

私にとって「よい作文」とは、正しい文法と表記で書かれた文章ではありません。
また、長く書かれたものが「よい作文」でもありません。
私にとって質の高い作文とは、その人が今持つ力を全て(に近いものを)使って、書かれたもののことです。
ですから、たった3行でも、それがその人が生み出せる精一杯の言葉であったとしたら、それこそが「書けた」ということになります。

逆に言えば、3枚、4枚と書かれた文章であっても、見栄えのよい言葉を連ねただけで本心は語っていない、あるいは本心を見つめようとしていない文章の場合は、「書けている」と私は思いません。

 

ですから、私は名古屋のあるグループの人達と作文をするにあたって、「この人達は作文を苦手だと思っている」「できれば書きたくないと感じている」とは思いましたが、「作文が書けない人達だ」とは思いませんでした。
むしろ、「きっかけさえつかめれば、この人達は書ける」と思っていました。

作文指導で一番大切なのは、この点なのかもしれません。
多くの人は、「作文が書けない」ということを、「量が書けない」「書くことを思いつきにくい」と定義しています。
しかし、それが「書けない」ということではありません。
「書ける」というのは、自分と向き合って、伝えたいことを伝えたい形で言葉にすることです。
このことを本人と周囲の人に理解してもらうのが、作文指導において最初に取り組むべきことであり、一番大切なことではないかと私は思っています。

 

名古屋のグループの人達は、幸いなことに「書く」ということの本当の意味を理解してくれました。
彼らは「書けます」。真摯に己と向き合い、言葉を紡いでいます。
確かに、「っ」が抜けたり、主述が一致しなかったりということはあります。軽減はしてきましたが、ミスなく書くことは難しそうです(でも、誰でもそうですよね)。

私も、そして彼らも、書くことが困難とは感じていません。
書くことが困難と思っていないのに、他の人にわかってもらうために便宜上「困難」と定義付けた、それが私の違和感の正体でした。

 

彼らに申し訳ないことをしてしまいました。
書けるのに、困難と言ってしまった。
なんと情けない。
早く謝りたくて、土曜の更新を前倒しして書きました。
彼らはこの文章を読みませんが、私がそういう括りをしたことをどこかでちゃんと察する気がします。
彼らの前に立って恥ずかしく思うような文章を書かないよう、今回のことは自分への戒めとしたいと思います。 


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