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読み手の修行 [子どもの言葉を変える魔法]

こどものことばを磨くのは周囲だと昨日書いたが
もちろん、自ら磨き始める頃もある。
他者が自分をどう見るかを意識する頃から始まる。

その前の段階では、
読んだ人(先生や家族)がほめてくれるかどうかが基準。
ほめてくれればOKだし、何か注意されたらアウト。
だからこの段階の「ほめる」に一工夫すると、子どもは伸びる。
「正しいことを書いた」ことをほめると、それしかしなくなるが
多少変な言葉遣いでも、感覚を用いて描いたところや
その時の自分勢いそのままに、
周囲を見て動きを書いていったところなどをほめると、
「そうか、こういうのがステキなんだ!」と思って
次もそのタイプの表現を入れようとする。

つまり、この時期の「ほめる」は表現の基準作り。
文字が正しい、道徳的に正しいことを書いた時だけほめると
それしか書かなくなる。
周囲の反応がまずは第一段階の基準だ。


他者の目線を気にするようになってからは
子ども自身が作文の基準を作るようになる。
女の子なら逸脱を避けるようになる。
文や筋道がこわれないよう、
よく耳にする倫理観でものを書こうとする。
男子は、まずは見た目。辞書で漢字を調べて書くようになる。
用いる言葉も熟語が増える。抽象語が特に増える。
それはいいのだが、概念的なことに終始して、
「どこかのだれか」の話になってしまいやすい。
文章に自分の真の感覚は あまり用いなくなる。意図的に。

この時期の人たちでも、ほめられることはやはり嬉しい(はずだ)が、
「すごいねー」ではほめたことにならない。
この時期の人には、
「あなたのこの部分が、こういう効果を上げていて、
それが読み手にはこんなふうに響く、だからいい」と
どこがどのように良いのかを伝えるようにしたほうがいい。
親の場合なら、あれこれ 言っても照れて聞かないかもしれないので
具体的にほめるときがあったり、
ただじっと、
何度もなんどもその作文を愛でるように黙読する姿を(わざと)見せたりすると
いいかもしれない。
子どもは案外横目でそれを見ている。
分量の少なさや字の読みにくさや「何言ってるのかわからない」文章だと
非難するかのように言ってしまうのは、…あまりよい効果を上げない。


よい読み手がよい書き手を育てる。
書く、というのは、書き手の修行のようだが
受け手、つまり読み手の修行でもある。
どう受け取り、どう返すか。
読み手が書き手を力を測っているように
書き手も読み手の力量を、文字の隙間から窺っている。


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