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子どもの言葉の変遷 [子どもの言葉を変える魔法]

子どもの言葉について最近書いているのは、
少し気になることがあるからだ。

子ども相手の仕事を始めて30年近く。
最初の職場はかなり特殊な子どもが集まるところだったので、
世間一般的にそうだったかはわからないが、
子どもたちは、丁寧に言葉を選んでいるという感触があった、
自分の感覚とは違うものを安易に書きつけることはできず、
文がめっちゃくちゃであっても、
テーマを全身で感じて描いていく、という印象があった。

それから10年。
子どもたちは「即座に反応する」ことを良しとしていたように思う。
「すぐに」鋭いことを口にすることがよいこと、とばかりに返してくる、
テニスでいえば、ボレーばかりで返す感じ。
深く自分のコートにボールを引きつけて打ち返す、といったことが
なかなか難しかった。
しかし、彼らには口にしたいこと、批判・反論したいことが
たくさんあって、
とにかくよくしゃべった。
口でも、紙の上でも。
はねとんでいる感じがあった。

次に強く感じるようになったのは、
「得か損か」で判断する傾向。
得ならやる、損ならやらない。
考えや態度を二極化していく傾向が見られた。
「得・損」「正しい・間違っている」「よい・悪い」「必要・不必要」
が二極化の代表だった。
物事の本質を見極めていくことより、大別していくことが
考えること、書くことだと思っている節があった。
彼らには集団の中での立ち位置を常に意識しているところがあって、
誰がどんな役割をしているかをよく観察していた。
その中で、自分がどの位置にいることが自分にも集団にも利となるのか、
捉えて動いているようだった。
したたかさがあったと思う。

次となると、発語が減り始める。
よく笑う。よくうなずく。
場と時間を楽しんでいる。
しかし書くとなると、話を消化しきれていない感があった。
物事を楽しむ才能を持っている反面、
物事の深いところにまで光を届けていけないようだった。
テレビのバラエティー番組を見ているかのように講義を楽しむ。
しかし、突然自分が「発し手」となることを求められると、
パッと何かを口にすることができない。
聞きながら考える、ということはしていなくて
聞いている間は楽しんでいる、考えるのは別、というふうだ。
紙に向かってから考えることが始まるので、深まりを作れない。
もどかしくはあったが、じっとじっと待ち続けていくと、
この頃の人達は数年かけて自分の「考える」力を育てていったように思う。
一度深めることを身につけたら、
それをずっと持ち続けていくだろうという強さが感じられた。

そして、今。
発語はますます減ってきたように思う。
にこにこ笑って、じっとそこに座っている。
が、自分が発言する機会を得ても、
何も言えない。
言いたいことはかすかにあるのだろう、
口元が動いて体も揺れる。
しかし、声にならない。
紙に向かっても、なかなか言葉に置き換えられない。
置き換えても、その人の本当の感覚からはずいぶんと減った形で記される。
ひょっとしたら、感じる力そのものも、鈍くなっているかもしれない。
目・耳・鼻・手・口、体で受け取る情報が意味を持たなくなり、
観察する力が低下している。
感じていることそのものへの注意が減っているので
言葉に置き換えることも難しい。
言葉の強弱に対する感性も、なかなか育っていかない。

一方で、雄弁な子達は雄弁になっていく。
街頭インタビューで感想を求められて答える子どもたちの言葉を聞くと、
うまくまとめるもんだな、うまく「それらしいこと」を言うな、
まるで大人みたいだ、と思うことが増えた。
「たのしかった」「えー、ふつー」「チョーやばい」などにはならない。
立派なコメントをマスコミが選び始めたせいかもしれないが、
それはともかく、作文においても描写課題はうまくなった。
うますぎて、どこかのライトノベルから引っ張ってきたのではないかと思うくらいだ。
うまい。でも、みんなどこか似ている。
生活感がない。
その土地ならではの気配がない。
日本全体がそうなっている、のかもしれないが
どの風景も同じに見えて、
土の描写も風の描写も、強弱のつけ方も、どこかみんな似ている。
作り物めいている。
そこに肉体や息吹を感じることができない。


さて、と思う。
この流れはどこへ向かうのだろう。
最初の頃に見ていた子ども達はすでに子を育てる世代となっている。
彼らの言葉や姿勢が、次の世代を育てていく。
今の子どもたちが欠点だらけだとは思わない。
短所があるということは、その分長所を育てていっている、ということだ。
たぶんそれは、今のこの世界を生き抜く力に通じていくものだ。
その力を見出し、伸ばしていくと同時に、
やはり「見せかけの感覚」ではなく、
本当の五感への注意力、
そして人から提示されなくても、本質を見抜こうとする視点と姿勢、
それらを育てていきたいと思う。

言葉を発しにくい人には、いくつかの例をこちらから言ってみせることがある。
その人の感覚に近いものだけでなく、真逆のもの、少しずれているもの、
いくつか例を挙げてみる。
そうすると、「こういうタイプの言葉を使えばいいのか」とわかって
つまりは手がかりをつかんで、
自分の感覚に即した言葉を選んで口にしてくれることが多い。いや、多かった。
今はどうかと言えば、
「選ぶ」だけだ。
選択肢が自分の感覚とは違うと感じたとしても、
提示された中から、選んでそのままを使う。
触発をねらった働きかけは、触発とはならず
言葉や自分の感覚を吟味する機会を作ることにはなっていない、と感じる。


ここが今の課題である。
今までずっと、課題としてきたことは難問だったが
今回もまた、難問だ。
どうすべきか。何ができるか。
自分は、地方の小さな個人教室の主宰者であって、
無名で、日本の教育を左右できるような力など持たない者であるけれども、
そんなこと子どもたちには関係ない。
その子のそばにいるのは、有名なセンセイではなくて私である。
だったら私が、一流たろうとする意識を持って
一流と同じ視点を持って、
一流にはできないことをしようとしなければならないと思う。

そういう矜持を持った人はたぶん世界にたくさんいる。
私もその中の一人でありたいのだ。
だから毎日、何かを考え続けている。


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