SSブログ

テーマ作文「AIの未来判定」(2) [課題―テーマ作文]

続きは次回、ってしてから1ヶ月以上経ってしまいました、
なんてことだ、すみません!
あの後に、突然入った個別指導が2件・・・、
ほぼ全ての空き時間をそれらにつぎ込むことになりました。
やはりもう少し時間のやりくりをうまくしないとなあと反省です。


さて、前回書いた、AIが一人ひとりの特性をとらえ、
より力を発揮できる道を判定してくれる、というものについて。
中学生は「いやだ」と即座に否定。
高校生は「まぁ、それもアリなんじゃない?」とどちらかというと受け入れ気味。
討論してみよう、という流れになったので、
中学生は反対側、高校生は賛成側に回って意見交換することになりました。

しかし討論は最初から「ディベート」形式にはなれませんでした。
中学生の一人が
「将来は自分で決めたほうがいいと思います。人は夢を持つと、夢に向かってがんばろうという気持ちになるし、努力もできます。夢はその人を成長させるので、将来の夢を自分で持てないような仕組みでないほうがいいと思います。」
とまあ、そんなかんじで始めました。
「夢で成長」とか言うのが照れ臭いのか、うつむき加減で…。
中学生らしい始め方です。

直後、高校生女子がつぶやきました。
「そういうのが今の教育、なんだよね。」
全員、彼女に注目。
「そういうふうに『夢が大事ですよ、夢を持ちましょうね』というのが、今の教育の考え方で、そういう考え方が正しいって思わされていくんだよね。結局、本当に夢を持つことがどういうことかを知る前に、そういうふうに考えましょう、それが正しいですよ、と思わされてる。」
それならAIが判定したことに従うのとかわらないじゃん、というわけです。

最初に発言した中学生は唖然。
でも同時に「ああその通りだ」という表情。
中学生ですから、学校の先生のやり方に疑問を持つ時期です。
夢とか希望とか、本心では信じているけれど、夢は全部かなうわけじゃないし、今やっている努力もそう簡単に実らないというのも実感しています。

だから「夢を自分で持つべき」と口にするときも、うつむきたくなるし、内心(本当にそうなんだろうか?)という思いも浮かんでいます。
高校生女子が言うことは、彼らの感じていることそのものでもあったわけです。

「うへー」という顔つきになる中学生たち。
続けて他の高校生が、自分の中学時代のクラスメートの中で、すでに働いている子を例に挙げて、働くということ、お金を得るということの意義を言い始めたり、最初に口を開いた中学生は「オマエは生徒会長には向いていない、他の〇〇の役をやれ」と言われて挑戦さえさせてもらえなかった体験を熱く語り始めたり、別の中学生は「決められるというのが息が詰まる感じがする」とつぶやいたり、実際数年後に就職先を考えねばならない高校生が「オレ、自分にどんな力があるのかさっぱりわからん、教えてもらえるならそれに一生懸命頑張るけど」と何度も繰り返したり。

ディベートをしたかったわけではないので、それぞれが感じていることを自由に話してもらいました。
討論では、「言い負かす」ことが目的にならないようにします。
私がこの場でしたいのは、いろんな考え方に触れること、そしてそれを理解してみること、です。
すでに一度「進路選択」をすませた高校生だからこそ言えることがあります。
「これ」がしたいということより、自分が生かせる場所があることを望みます。
一方中学生は、自分の考えはあるけれど、それがどのくらい「自分のもの」で、「人から植え付けられた」ことなのかの区別がつかず、「植え付けられている」「決めつけられている」ことへの反抗心を持ちやすい時期です。
ですから、自分が望むことがAIと一致する可能性より、否定される可能性のほうが高く思えるし、それに対する嫌悪感もやはり強く出ます。
それぞれの置かれている状況によって、感じることも語ろうとすることも違います。

どれがいいということではありません。
正解はないし、自分なりの答えさえ出ないかもしれないことを、とにかく考え抜いてみる。
難しいけど、やり抜いてほしい、といつも伝えています。



討論ではAIを利用して自分を生かす意味を全員が知ったようでした。
作文では、討論を経て思うことを書くようにと伝えました。
中学生たちは、討論では最終的に「そうだ、AIでいいじゃないか!」なんて叫んでましたけど、一人で書くとなるとやはり、どんなに回り道しても自分で選びたい、というのが主流でした。
教育論を展開した高校生女子は、「私の進路はAIに決めさせない」路線でした。自分がしたいことは明確なので、AIがそれと違う予測などたてるわけがない、という気概が垣間見えました。


こんな討論が、いったい何の役に立つのか?
と、お思いのかたもいらっしゃるでしょうか?

漢字が書けるかどうかとか、型通りに書けるかどうかとかいうのは、
年齢を重ねれば、中学高校でやるよりもはるかに、楽に、すぐに、できるようになります。
パソコンが全部、漢字を教えてくれます。
知識だって、ぜんぶ教えてくれます。

しかし、多角的に考えること、
違う見方でものを見てみること、
なぜ?と何度も問い、考えを深めることなどは
パソコンを用いてできることではありません。
なにより、大人になってからでは、なかなか取り組みにくいことです。
「仕事」という、失敗できない状況に置かれているからです。

試行錯誤が許される10代だからできるのです。
他者の考えを理解しようと努めること、
自分の考えを「思う」だけではなくて、深く熟考してみること、
それを他者に分かる形で言葉に置き換えてみること、
これらが彼らのこの先に人生に何の得もないなんてこと、ありえません。


点数を稼ぐための作文指導はしません。
そちらのほうが簡単ですけどね。
10代は大人が思うよりもうんと果敢なんです。
「答えの出ない」怖さを知りつつ、みな挑めるんですよ。
そういう場があまりないだけ。
ウチくらいは、そういう場になりたいと思っています。


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。